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自由論 ON LIBERTY ジョン・スチュアート・ミル著

1.はじめに

哲学者による「自由論」という本の題名から、読む前は、自由に対する崇高な理念が、もっと哲学哲学した感じで書かれている小難しい内容を想像していました。

しかし、読んでみると、一般常識と違う意見を持ったときに”違う”と言える「心理的安全性」だったり、異なる意見がぶつかりあって新たな考え方が持てるようになる「多様性」だったり、実に地に足がついた議論が展開されています。

このような最近の組織論でも頻繁に語られるキーワードが、日本では江戸時代だった1859年にイギリスで出版されているという事実に、非常に大きな驚きを感じました。

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2.内容

(1)第1章 はじめに

  • 支配者の鋭いくちばしや爪に対して、民衆は絶えず防御の構えを取り続けなければならない。したがって、国を愛する人々が求めたのは、支配者が社会に対して行使できる強力に制限を設けることであった。そしてこの制限こそ、彼らのいう自由の中身であった。
  • 多数派とは、自分たちを多数派として認めさせることに成功した人々。それゆえに、人民は人民の一部分を抑圧したいと欲するかもしれないので、それに対する警戒が、ほかのあらゆる権力乱用への警戒と同様に、やはり必要。
  • 集団の意見が個人の独立にある程度干渉できるとしても、そこには限界がある。この限界を見つけ、この限界を侵犯から守ることが、よりよい人間生活にとっては政治的な専制に対する防御と同じくらい重要不可欠。
  • 社会全体、あるいはその有力な部分に拡がった好き嫌いの感情こそ、社会が全体として守るべき規則、そして守らねば法律や世論によって罰せられるという規則を定めた事実上の主役。
  • 干渉を正当化するには、相手の行為をやめさせなければ、ほかの人に危害が及ぶとの予測が必要。個人の行為において、外の人にかかわる部分についてだけは社会に従わなければならない。しかし、本人のみにかかわる部分については、当然ながら、本人の自主性が絶対的。自分自身に対して、すなわち自分の身体と自分の精神に対しては、個人が最高の主権者。
  • 他者に害を与えたら責任を問われる。一方、害を防ぐ行動をしなかったために責任を問われるのは、どちらかといえば例外。人は、他者と関係するあらゆる場面において、そのすべての関係者に対し、また、必要であれば全体の保護者としての社会に対し、理屈の上では責任がある。
  • 支配者はもちろん、同じ市民の立場であっても、人間は自分の意見や好みを、行動のルールとして人に押し付けたがるもの。この性向は、人間の本性に付随する感情の最良の部分と、そして最悪の部分とによって、極めて強く支えられているので、それを抑制するには権力を弱めるしかない。

(2)第2章 思想と言論の自由

  • 一人の人間を除いて全人類が同じ意見で、一人だけ意見がみんなと異なるとき、その一人を黙らせることは、一人の権力者が力ずくで全体を黙らせるのと同じくらい不当。意見の発表を封ずるのは特別に有害。すなわち、それは人類全体を被害者にする。その時代の人々だけでなく、後の時代の人々にも害を及ぼす
  • その意見が正しい場合、人々は間違いを改めるチャンスを奪われたことになる。その意見が間違っている場合にも、人々は前の場合と同じくらい大きな利益を失う。なぜなら、間違いとぶつかり合うことによって、真理はますますクリアに認識され、ますます生き生きと心に刻まれるはずだったから。
  • 人類は間違いを犯すものであるという事実が、理論上では必ず重視されても、実際の場面においてはほとんど軽視される。誰でも自分は間違えることがあると知っているのに、そのことを常に心に留めておかねばと考える人はほとんどいない
  • ある意見が、いかなる反論によっても論破されなかったがゆえに正しいと想定される場合と、そもそも論破を許さないためにあらかじめ正しいと想定されている場合との間には、極めて大きな隔たりがある。自分の意見に反駁・反証する自由を完全に認めてあげることこそ、自分の意見が、自分の行動の指針として正しいといえるための絶対条件
  • 人間は経験と議論によって、自分の誤りを改めることができる。ただし、経験だけではダメ。経験をどう解釈するかを知るために、議論が必要。間違った意見や行動は、事実と議論によって次第に改められていく。人間が判断力を備えていることの真価は、判断を間違えたとき改めることができるという一点にある。
  • 真理に備わる本当の強みは、ある意見が真理であるならば、それは何度も消滅させられるかもしれないが、いくつかの時代を経るうちに、それを再発見してくれる人間がたいてい現れる。再発見された真理のいくつかは、幸運な事情に恵まれて、迫害を免れ、大きな勢力となる。そして、そうなった後は、いかなる抑圧の企てにも耐えられる。
  • 強固な意見を抱いている人は、自分の意見が間違っているかもしれないとは認めたがらないもの。しかし、どんなに正しい意見でも、十分に、たびたび、そして大胆に議論されることがないならば、人はそれを生きた真理としてでなく、死んだドグマ(教条)として抱いているにすぎない。
  • ほとんどの人は、自分がその現実に直面し、苦しい経験をして初めて、教訓の本当の意味を知る。人が個人的な経験によって実感しない限り、その意味を十分には理解しえない真理というものがたくさんある
  • 人は疑わしいと思わなくなった事柄については、考えるのをやめたがる。それが人間のどうしようもない性向であり、人間のあやまちの半分はそれが原因。
  • 秩序・安定をうたう政党と、進歩・革新をうたう政党も、相手の考え方に欠陥があるおかげで、良い考え方が持てるようになる。しかも、考え方が理性的で健康的でありうるのも、おおよそは相手からの反対意見があるおかげ
  • 部分的な心理どうしの激しいぶつかり合いは決して悪いことではない。真理の半分が音もなく静かに抑圧されることこそが恐るべき害悪。対立する意見の一方の側にしか擁護者がついていない場合、双方の間に座って、理性的な判定が下せるほどすぐれた知性を備えた人間はめったにいない。
  • 論争のどちらの側に立つ人であれ、主張の仕方が公平さを欠き、悪意や偏見や心の狭さを露わにしている人は、誰であろうと非難される。ただし、その人が我々と反対の立場である場合、彼のそうした欠陥をその立場のせいにしてはならない。

(3)第3章 幸福の要素としての個性

  • 他人に直接関係しない事柄のおいては、個性が前面に出ることが望ましい。その人自身の性格でなく、世間の伝統や慣習を行為のルールにしていると、人間を幸せにする主要な要素が失われる。個人と社会にとっての重要な要素も失われる。
  • 人間は成熟すれば、経験を自分なりに活用したり、解釈するようになる。それが成熟した大人の特権であり、当然の役割。人類が重ねてきた経験のどの部分が自分の今の状況や性格に正しく応用可能なのか、それはまさしく自分自身で見つけなければならない
  • 洞察力、判断力、識別力、学習力、さらには道徳感情をも含む人間の諸能力は、選択を行うことによってのみ鍛えられる。何ごとも慣習に従う者は、選択を行わない。最善のものを見分けたり、最善のものを望む力が少しも育たない。知力も精神力も、筋肉の力と同じく、使って初めて向上するもの。
  • 人は何をするかだけが重要なのではない。それをする人はどういう人なのか、というのも実際には重要。人が一生をかけて完成させ、磨き上げるべき作品の中で一番重要な作品は、まさしくその人の人間そのもの
  • 自由を行使する人々から何かが学べる。独創性が人間の社会において貴重な要素であることは、誰も否定しないだろう。新しい真理を発見する人、かつての真理がもはや真理ではなくなったことを指摘する人が必ずいなければならない。
  • 独創性が一般の人々にとって最初に役立つのは、人々の目を開かせること。完全に目が開けば、その人にも独創性が身につくチャンスが出てくるだろう。どんなことでも必ず最初に行った人がいるはずであり、いま存在する良いものはすべて独創性の成果。
  • かつての時代のおいては、人と異なる行動を取るのは、それが普通より優れているのでなければ意味がなかった。しかし、現代においては、大衆に順応しない実例を示すこと、慣習に膝を屈するのを否定すること、ただ単にそれだけでも意味がある。世論の専制は、変わった人を非難するもの。だから、まさしく、この専制を打ち破るために、我々はなるべく変わった人になるのが望ましい
  • 喜びの源や、痛みの感じ方、種々の肉体的・精神的な要因による影響の出方は、人ごとに大きく異なる。したがって、人々の生活様式にもそれに対応した多様性がなければ、人々は自分が得るにふさわしい幸せを得ることができない。また、知性や道徳性や美意識を、自分の本分が達しうるレベルまで成長させることもできない。

(4)第4章 個人に対する社会の権威の限界

  • 個人の行為は、法に定められた他人の権利を侵害するまでに至らなくても、他人を傷つけることがありうるし、他人に対する思いやりを欠いたものであることもありうる。そういう行為をした者は、法律によって罰せられなくても、世論によって罰せられてよい
  • 我々はまた、人に対する否定的な意見を抱き、そしてそれに基づいて色々な形で行動する権利がある。ただし、それは相手の個性を抑えつける形ではなく、自分の個性を働かせるような形でなければならない。例えば、その人と無理に交際しなくてもよい。交際を避ける権利がある。交際したい相手を自分で選ぶ権利がある。
  • 個人的な欠点は、その人の愚からしさ、人間としての尊厳や自尊心の欠如を多少なりとも証明するものではある。しかし、それが道徳的な非難の対象となるのは、他人のために自分に関して注意すべきことを怠ったという意味での、他人に対する義務の不履行があった場合に限られる。
  • その人をどうにかできる権利が我々にない場合、我々が不愉快に感じれば、はっきり不愉快だと言うのは構わないし、その不愉快なことからも、その人からも遠ざかって構わない。しかし、仕返しをして、その人を困らせてやろうとか思わないようにしよう。その人は、自分の過ちの罰を既に受けている、あるいはこれからたっぷり受ける、と考えたい。

3.教訓

冒頭でも心理的安全性だったり多様性だったりについて触れましたが、特に、心理的安全性のつくりかた(石井遼介著)に出てくる、「新奇歓迎」という考え方は、秀逸な表現であると改めて感じます。

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これだけ変化の大きな現代であれば、数年前には正しいと認識されていた考え方・やり方についても、少し時間が経てば過去のものになることもあります。自身でも、回付される稟議や報告を見て疑問に思ったとき、「何でこう考えたの?」と聞いたときに、「これまでそうなっているからです」という回答があれば、「それでは回答にならない」という話をすることがあります。

自分の頭で考えて判断していかないと、本当にそれでよいのかはわかりません。改革ありき、ということ言いたいわけではないので、結果として前例踏襲が正しいこともある(続けてきた理由がある)と認識しています。ただ、それをずっと続けていると、他にもっといいやり方があることや、実はもうやらなくていい仕事だったということに気づけない、ということにつながります。

今のやり方を改めたり止めたりすることには、一定の理屈や勇気が必要です。変更案を考えたみたものの、実は既存の方法が正解だった、ということも起こります。それでも、「ちょっと違うかも」と考える自由、発言する自由、またそのような雰囲気作りが、組織を活性化させることにつながり、自分の考え方だけが正しいものではないことは、常に心に留めておきたいと思います。

また、いくら正しいことを言っていても、発言や行動の仕方が思いやりを欠き、相手に不快感を与えると、社会的には罰を受けるということにも触れられていたのには、深い興味を感じました。

さいごに、本書第5章に、「自由の原理は、自由を放棄する自由は認めない。自由の譲渡まで認めるのは、断じて自由ではない。」と書かれていたことも印象的だったので、それを紹介して終わりにします。