管理職おすすめの仕事に役立つ本100冊×3

課長経験者が身銭を切る価値のあるのおすすめ本だけを紹介するページ(社会人向け)

教育工学が明かす大人の教わる技術 関戸 大 著

1.はじめに

タイトルを見て関心を持ち、読み始めて以下の文章に出会う前は、「学ぶ」と「教わる」の違いを意識できていませんでした。

「わかったフリ」をして、無知を隠す。過去の成功体験にしがみつき、変化を避ける。そうやって「教わる力」を失った瞬間から、大人の知的老化は始まります。

この静かな停滞を打ち破るのは、孤独な独学ではありません。

もう一度、誰かに教わるために「白帯」を締める勇気です。

「教わる」には「教える」人がいて成り立つものであり、考えれば当然なのですが、その意識が全くないまま今まで過ごしてきた自分にも少し驚きを感じました。

本書は「さだめる」「つながる」「つづける」「かせぐ」の4部に分かれ、それぞれ10個のレッスン、合計40項目で構成されています。

1つ1つが関心がある内容で、中でも特に印象に残った個所を以下に引用し紹介します。

2.内容

(1)さだめる―教わる準備は、自分との対話から

  • 「わからない」と言えないまま積み上げた嘘の山は、いつしか自分でも崩せない壁になり、私たちを「過去の貯金だけで食いつなぐ人」に変えてしまう。教わる力を取り戻すためには、自分の中に潜む「わかったフリ」に気づくこと。そして、手放す。それが最初の一歩。
  • 相手の言葉をそのまま繰り返す。これだけで、脳の省エネプログラムに待ったをかけて、自分のズレを修正できる。まずは、自分のスキーマが動き出していることに気づく。誰かの話を最後まで聞き、早とちりしない。聞ききる人だけが、教わりきれる
  • 「なるほど。そういうアプローチもあるのか」 これが、比較を「評価モード」から「教材モード」に変える一言。誰かに勝とうとするから、常に気を張り、息が詰まる。比較のレースから降りたとき、私たちははじめて他者の存在を心地よく感じられる。他人の物差しから降りたとき、自分の居場所はようやく見えてくる。
  • 「他者が自分をどう見ているか」は自己評価の投影にすぎず、驚くほど当てにならない。まずは、深読みをやめる。事実だけを残すだけで、言葉をそのまま受け取る余白が生まれる。他者の視点は、これまで一緒に働いてきた人たちとのかかわりが、あなたの中に残してくれた「ご縁」という名のあたたかい資源。
  • 価値観や自己像は、PCでいえばOSのようなもの。土台となるOSが古いままだと、新しいアプリを入れても、うまく動作しない。OSを更新するためには、自分の「べき」に気づき、その奥にある変わりたくない自分に気づく必要がある。古い「べき」や自己像を手放すことは、過去の自分の否定ではない。ただ、今のあなたには、もう合っていないだけ。だから、感謝して手放す。

(2)つながる―教わる力は、関係の中で育つ

  • 教わる入口は、「講義を聞く」ではなく「コミュニティの端にいさせてもらう」こと。「まだ何もできない自分」を素直に出せる。そして、それが受け入れられる。そんな心理的安全性のある場を手に入れられるのが、職場の外の「出稽古」。職場では黒帯でも、外の世界の道場では白帯として末席から参加する。利害関係のない場所で「教えてください」と頭を下げる。その経験こそが、凝り固まった脳に知的刺激を与え、私たちに新しい手札をもたらす。
  • 「教えてください」は、あなたの無能を証明する言葉ではない。相手の世界に入り、教わる関係を築くための最強の入場券。素直に教えを乞うことは、相手の時間を奪うことではなく、相手の知恵が役立つ場を差し出すことでもある。実際、私たちは、自分を頼ってくれた相手に好意をいだくもの。
  • 「わかったつもり」と「できる」の間には、大きな溝がある。そこにあるのが、言葉になりにくい「暗黙知」。私たちが誰かを師と仰ぐとき、惹かれているのは、言葉そのものよりも、その人のたたずまい。メモを取る手をいったん止めて、言葉になっていない領域に目を向ける。そこから本当の「教わる関係」が始まる。
  • 居心地の悪さに耐え切れなくなると、私たちはつい「自分らしさ」に走る。けれど、無理にひねりだした自分らしさは、型破りではなく、ただの自己流。型を身につけていないのに肩を破ろうとするのは、ただの「形無し」。本当の意味で自分の型をつくるには、1つの型から飛び出すのではなく、複数の型を借りて、試して、削っていく必要がある。ゼロから生み出すのではなく、借りたものを編集する。その引き算のあとに残るもの。それこそが、あなただけの型
  • 孤高の登頂は格好いい。けれど、頂に至る前に、だいたい遭難する。だからこそ必要なのは、役に立つ優秀な仲間よりも、少しだけ悪い仲間。前向きなアドバイスは、かえって私たちを追い詰めることすらある。横で愚痴を言いあいながらも、「自分も、まだよくわからない」と言える相手。それが共犯者。そんな存在が足場になるからこそ、私たちは途中で折れずに、自分を変えていける。
  • 教わったお礼は、師に直接返そうとしなくていい。別の誰かに、そっと手渡す。私たちが目指すのは、返戻のうまい人ではなく、循環を止めない人。開かれた循環の中で、理解は深まり、信頼は育ち、教えはあなたの血肉になる。

(3)つづける―教わる力は、意志ではなく設計で続ける

  • 「行けたら行く」をやめる。そんな曖昧な参加の仕方をやめよう。行くなら行く。行かないなら行かない。まずは、そのどちらかに決める。教わる関係は、「そのうち」では育たない
  • 目標をバカバカしいほど小さくする本当の理由は、自分が達成感を得るためではない。確実に「できた」事実をつくり、師や仲間に「堂々と顔を出す(報告する)ための口実」を絶やさないため。小さな一歩は、進捗ではなく、関係を続けるための「約束のチケット」。
  • 疲労困憊で終わった記憶は、脳に「これはしんどいもの」と強烈な印象を残す。すると次にやろうとしたとき、脳は「またあの疲労を味わうのか」と無意識に身構え、始めるハードルを吊り上げてしまう。教わる関係を日常に根付かせるには、「もっとやりたい」と思う余力を残したまま、あえてスパッと区切ること
  • 「教わる力」は大人の「勉強」法ではない。「学ぶ」はひとりでできる。「教わる」はひとりではできない。師に教わり、現場で試し、共犯者とボヤき合いながら悪戦苦闘する。そこには、他者との関わりの中で泥臭くもがく「あなただけの物語」が生まれる。人が本当に面白がり、応援したくなるのは、その物語。

(4)かせぐ―教わったことを、他者の価値に変える

  • 外の言葉を翻訳せずに持ち込むと、無意識のマウントになってしまう。言っていることは正しい。でも、場の空気は冷える。その言葉がどこか「外から来た正解」の匂いをまとっていると、今度は防衛本能が働く。人は面倒なことにも反発するが、見下された感じにはもっと敏感。外の教えを渡すには、受け取りやすい翻訳が必要。
  • どんなに素晴らしい手札でも、相手がそのカードを今、必要としていなければ、それは価値でなく、おせっかい。忙しい大人にとって、役に立つかどうかわからない親切は、だいたい「仕事を増やす話」に聞こえる。相手の困りごとを見つけ、それに合わせて手札を切り直す。ここを乗り越えてはじめて、教えは他者にとっての価値に変わる。大事なのは、上手に話すことより先に、相手がどこでつかえているかをちゃんと観察すること。
  • 相手が本当に求めているのは、「正しい答えをくれる立派な先生」ではなく、等身大の「少し先を歩く先輩」。「あの人も最近まで自分と同じだったのか」「それなら自分にもできるかもしれない」。その共感と安心感が、相手を動かす原動力になる。立派に見せるより、泥臭い失敗を開示する。等身大の弱さこそ、本当に相手が知りたいこと。
  • 小さな変化は、自分では気づきにくいもの。自分の前進を自分で正確に測れる人は、それほど多くない。だからこそ、相手を観察し、小さな変化の見逃さず、言葉にして「見える化」してあげる。相談され続ける人は、観察して声をかける人
  • 私たちはつい「何かの専門家」として自分をブランディングしようとする。しかし、この「専門家」の看板は、ときに自分の首を絞める。専門家を名乗った瞬間、相手との関係は「相談」ではなく「発注」に変わる。だから専門家ではなく「教わっている人」「現場で実験している人」と名乗る。「完成された専門家」ではなく、試行中の自分を開いたままにする。そのほうが人も情報も、次の出番も集まってくる。
  • 成功体験に居座らず、一生「教わる人」であり続けるために、たった1つだけ意識してほしいことがある。それは、あなたが「教える側」でいられる場所とは別に、必ず「教わる側」に戻る場所を持ち続けること。自分の常識が通用しない相手に向かって、素直に「教えてください」と言わなければならない場所。そこで自分は、また白帯に戻る。

3.教訓

「はじめに」に書いたとおり、今回の読書はリスキリングの一環として、“学び直し”を意識して始めました。

しかし読み進めるうちに、単なる知識の獲得ではなく、これまでの経験や肩書きをいったん脇に置き、白帯を締め直して「教えてください」と頭を下げる姿勢こそが、学びの本質なのだと強く感じました。自分の中の“できるはずだ”“知っているはずだ”という思い込みを外せるかどうかが、まさに大人の学びの分岐点なのだと理解できました。

40代・50代になると、それなりの役割を任され、それなりの成果を出し、それなりのポジションと報酬を得るようになります。そうすると、今の状態に安住しやすくなり、若手や他部署から何か尋ねられたときに「知らない」「わからない」と言うのが妙に難しくなる。プライドが邪魔をして、教わる機会を逃してしまう──これは多くの人が直面している現実だと思います。

そんな中、「つながる」の章で出てきた“職場の外の出稽古”という言葉がとても印象的でした。まさに私自身、キャリアコンサルタントや産業カウンセラーの養成講座に“出稽古”し、年齢も立場も性別も異なる人たちと肩を並べて教わった経験は、かけがえのないものでした。

各々が自分の意思で受講料を払い、講座修了後の資格試験に向けて勉強会を組み、一緒に学び合う。そして次の世代の受講生に、自分たちの経験を手渡しながら、また共に学びを深めていく。この循環は、まさに「大人が教わる技術」を体現する場であり、これからも大切に続けていきたいと思える営みです。

 

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ビジネスパーソンのための「芸風」で書く技術 レジー著

1.はじめに

レジーさんの本は、以前にも読み投稿をしたことがあります。

bookreviews.hatenadiary.com

ビジネスパーソンとして仕事をする以上、「書く」ということから逃れることはできません。そして、ビジネスライクに書くことが求められ、その人固有の「芸風」は排除すべきもの、と一般的には捉えがちかと思います。

その「芸風」について、序章で以下のように書かれてます。

  • 自分の興味関心を組み合わせながら「この事象をこう見る」という着眼点を見つけられるか?
  • その着眼点を見出す自分なりの必然性を定義できるか?
  • わかりやすさをベースにしながらも感情を適度に織り交ぜて言葉を紡げるか?
  • これら3つの切り口について、自分自身のキャラクターがにじみ出ているか?
  • この考え方を、定型的な文章が求められがちな会社・ビジネスのシーンでいかに発揮するか?

効率化の名のもとに、書き手の「らしさ」を奪ってしまうことになりますが、仕事には面白くないものはつきものだとしても、その中に面白い側面を少しでも多く混ぜ込みたいという筆者の考えのもとに、話が展開されていきます。

2.内容

(1)今なぜ「芸風」なのか?

  • 会社には「ルールとして決められていること」と「解釈の余地があること」のグラデーションが存在する。この二分法に則ると、ビジネスシーンにおける芸風とは、「解釈の余地があること」に自分なりの色をいかに忍び込ませるかということに他ならない。どうしても右にならえになりがちな場面において、自分にとって大事なこと、自分にとっての楽しいこと、あるいは気持ち良いことをいかに表現するか。そのためには、自分の持ち味を知り、それを表現する手段について知る必要がある。
  • 「芸風で書く技術」を身につけるうえで必要となる3つの要素
  1. 何を書くか:自分にとって面白く書けるテーマとは何か?
  2. なぜ書くか:書きたい/書きたくないにつながる心の中の動きは?
  3. どうやって書くか:どんな文体、構成で書くべきか?
  • 文章を書くことととは自分の人生を表現することに他ならない。仰々しく聞こえるかもしれないが、芸風の背景に個人の培ってきたキャラクターがあり、キャラクターにつながる蓄積には仕事以外の局面の経験も入ってくることを考えると、必然的にこういった視座になってくる。

(2)「何を」「なぜ」 自分の芸風のタネを見つける

  • 自身の感情には何かしらの背景がある。何かを書くにあたっても、「感じることに理由はいらない」と居直らずになぜそれを書きたいと思ったかを丁寧に検証すると、そこには自分にとっての大事な判断軸が宿っている。そんな地道な思考の積み重ねの先に、芸風は作られていく。
  • なぜ書くのかを深掘りする行為は、そのまま自分の価値判断の軸を明確にすることにつながる。何に怒り、何に違和感を覚えて、何を広めたいと思うのか。そこには、自分がどんな世界のあり方を望ましいと思って生きているのかがはっきりと表れる。これが芸風の1つの要素として「なぜ書くか」が含まれる理由。
  • 誰に頼まれるでもなく自然とやっていることにこそ、その人の個性が表れている。そういった営みを自分が文章を書く際の視点にうまく昇華させられると、そこに芸風が宿りやすい。

(3)「どうやって」 気になる!を言葉にしてみよう

  • 意識しておきたいのは、「自分語りはよくない」という規範からの解放。「自分語りはしない方がいい」という考え方を内面化しすぎてしまうと、自分は何が好きなのか、自分は何に心を動かせるのか、あるいは自分は何に怒っているのか、といった問いに対する答えを持たない人間になってしまう。
  • ファクト」「パッション」「アイロニー」の成分をどんなバランスで自分の文章に混ぜ込むかを考えることは、文体における自身の芸風を特定するうえで有効なアプローチ。物事の事実をつかむのか、熱く語るのか、少し斜に構えてみるのか。それぞれの方向にそれぞれの難しさがあるが、まずは自分にとって違和感のないバランスをイメージしてみると「どうやって書くか」が具体化されていく。
  • 大事にしたいのは、読む人の考える余地を意識的に作っていくこと。文章を投げかける際には、答えを断定しすぎることなく「少なくとも自分にはこう見えた」「もしかすると別の捉え方もあるかもしれない」といった余白のあるスタンスが求められる。これにより、書き手と読み手の対話の余地が生まれる。
  • 自分の書いた文章が目的や条件を外部から与えられたものであっても、「今回は自分にとってうまく書けた」という気持ちまで手放す必要はない。本書で述べている芸風で書く技術のポイントは、自分の中から見出された視点やリズム、言葉の選び方を通して自分自身そのものを表現した実感を持つことなので、外的要因に基づいた評価とは関係しない自己満足の感覚こそが非常に重要

(4)「芸風の見える文章」を会社で実践する

  • 仕事としてやっていることに他者からの目線や評価が入り込むのは仕方のないことだし、それそのものから逃れることは難しい。だからこそ、その状況を意識しすぎると過剰適応が生じて疲れてしまう。むしろ、せめて文章を書くことくらいは「上司からダメ出しされたけど、自分にとってはいい感じに書けていた。少なくともその文章を書いていた瞬間は楽しかったし気持ちよかった」と開き直れるくらいの心持ちでいる方が、仕事をうまく進めていくうえで重要度が高い。
  • 芸風とは決して奇をてらった表現をするための道具ではなく、「自分はどういう角度から物事を捉えて、それをどんなスタイルで伝える時に熱がこもっていくのか」を自覚するための視点。ビジネス書の型をそのままなぞるのではなく、「自分はこういう書き方をする人間だ」という自分なりの一貫性を持つことにより、職場では少しずつ相互理解が生まれる。
  • 仕事で書いた文章は必ず誰かに読まれ、何らかの評価を受ける。上司や同僚の期待、組織としての目的、時間やフォーマットに関する制約などに揉まれる中で、「自分は満足しているのに評価は芳しくない」「高く評価してもらったが自分としてはあまりピンときていない」といったズレが生じることは当然起こる。このズレをどう捉えるかは、芸風を磨くうえで非常に重要。
  • 芸風で書くとは文章に自分らしさを盛り込むこと。「書くことの楽しさ」がどう生まれるかを理解し、それを会社の文章を通じて表現することは、画一的になりがちな仕事の風景に自分にとっての面白さを忍び込ませることにつながる。そういった工夫こそ、日々の仕事において手軽に着手できるジョブ・クラフティングの実践

(5)「書けること」は「優秀さの証」か?

  • わかりやすいゴール、つまり他者の評価から逆算して考える場合、我を忘れることはむしろよくないことと言える。だが、(何度でも言うが)そうやって思考に制約を設けるのはもったいない。文章を書く場合、どれだけ事前に設計してもどこに到達するかわからない側面は必ず残る。そして、その不確実性の中にこそ文章を書くにあたっての気持ちよさが秘められている。
  • 芸風で書く技術において大事なのは自分の内面。自分の興味のあるものは何か。自分にとって書いていて心地よい文体とは何か。書き終わったときに自分が気持ちよさを覚えるのはどんなタイプの文章か。まずは自分にとって大事なことをエゴイスティックに突き詰めたうえで、それをシチュエーションごとに調整して外に出していくのが基本的なアプローチ。

3.教訓

一般の職業人にとって、自分らしさが最も形として残るものは、日報・企画書・稟議書といった日々の文書です。だからこそ、「文章を書くこととは自分の人生を表現することに他ならない」という指摘には強い納得感がありました。

その意味で、”たとえ目的や条件が外部から与えられた文章であっても、「今回は自分にとってうまく書けた」という感触まで手放す必要はない”、という観点は大切にしたいと思いました。成果物の性質にかかわらず、書き手としての主体性や手応えを守ることは、仕事の質にも直結するからです。

近年は生成AIの進歩が著しく、私自身も文書作成の場面で活用することがあります。しかし、AIに全面的に依存し、生成された文章をそのまま提出してしまうと、どこか“魂の入っていない言葉”が独り歩きしてしまう危うさがあります。実際、「普段の自分ならこういう表現は使わない」という文面に遭遇し、違和感を覚えることも少なくありません。

だからこそ、まずは「自分が言いたいこと」を自分の言葉で書き出し、そのうえで冗長さや構成の甘さをチェックする補助として生成AIを使う──この距離感が健全なのだと感じています。結果として、AI案ではなく自分の原案に戻ることもありますが、それは“自分の手触りを残したい”という自然な欲求なんだと、この本を読んで理解できました。

さらに、第4章で高尾先生の「ジョブ・クラフティング」に触れられていた点も印象に残りました。与えられた仕事をただこなすのではなく、自分なりの意味づけや工夫を加えていく姿勢は、文章を書くこととも深くつながっています。今後も、自分自身で主体的に考え、表現していく姿勢を忘れずに取り組んでいきたいと思います。

bookreviews.hatenadiary.com