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自由からの逃走 エーリッヒ・フロム著

1.はじめに

よく「自由」が語られるとき、「責任」とセットで語られることが多いと思います。

本書でも、個人として自由になることが、逆に孤独や不安感をもたらし、失敗の危険も自己責任であることが記されています。

さらに本書では、自由のなかでも「積極的な自由」として、自分自身で考え、感じ、話すことで自発的に外界とつながれば、孤独ではなくなる、としています。

娘の高校でも推薦図書になっていますし、少し検索してみたら、東京大学の告辞でも採り上げられたことがあるようです。

www.u-tokyo.ac.jp

2.内容

(1)自由ー心理学的問題か?

  • 人間の性質や情熱や不安は文化的な産物。事実、人間自身が、絶え間ない人間の努力のもっとも重要な創造であり完成。その努力の記録を、われわれは歴史と呼ぶ。
  • 人間の性質のなかには、他の部分よりもいっそう伸縮自在な適応しやすい部分がある。ひとによってそれぞれ異なっているこれらの衝動や習性は、非常に多くの弾力性と可塑性に富んでいる。
  • 1つの重要な要素は、人間は他人と何らかの協同なしに生きることができないということ。しかし「帰属」を求める要求を、そんなにも激しいものとするもう1つの要素がある。すなわち主観的な自己意識の事実、あるいは自己を自然や他人とは違った個体として意識する思考能力。この自覚のあることが、人間を本質的に人間的な問題に直面させる
  • どこかに帰属しない限り、また生活に何らかの意味と方向がない限り、人間は自らを一片の塵のように感じ、かれの個人的な無意味さに押しつぶされてしまうであろう。
  • 他人や自然との原初的な一体性から抜け出るという意味で、人間が自由となればなるほど、そしてまたかれがますます「個人」となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかということ。

(2)個人の解放と自由の多様性

  • 本能によって決定される行動が、ある程度までなくなるとき、すなわち自然への適応がその強制的な性格を失うとき、また行動様式がもはや遺伝的なメカニズムによって固定されなくなるとき、人間存在ははじまる。言い換えれば、人間存在と自由とは、その発端から離すことはできない。ここでいう自由とは、「…への自由」という積極的な意味ではなく、「…からの自由」という消極的な意味のもの。すなわち、行為が本能的に決定されることからの自由。

(3)宗教改革時代の自由

  • 資本主義は個人を解放した。資本主義は人間を共同的組織の編成から解放し、自分自身の足で立って、自らの運命を試みることを可能にした。人間は自己の運命の主人となり、危険も勝利もすべて自己のものとなった。個人の努力によって、成功することも経済的に独立することも可能になった。金が人間を平等にし、家柄や階級よりも強力なものとなった。
  • 人間はかれを精神的な権威に縛り付けているあらゆる絆から自由になるが、しかしまさにこの自由が、孤独と不安感とを残し、無意味と無力感で人間を圧倒する。自由で孤独な個人は、自己の無意味さの経験に押しつぶされる。
  • 個人は疑いと無力さの感情を克服するために、活動しなければならない。このような努力や活動は、内面的な強さや自信から生まれてくるものではない。それは不安からの死に物狂いの逃避である。
  • 「良心」とは、自分自身によって、人間のなかに引き入れられた奴隷監督者に他ならない。良心は、人間が自分のものと信ずる願望や目的に従って行為するように駆り立てるが、その願望や目的は、実は外部の社会的要求の内在化したもの
  • 新しく形成された性格特性は、今度は逆に経済的発展を促進させる重要な要素となり、社会過程に影響を及ぼしていく。新しい性格特性はもともとは新しい経済力の脅威に対する反作用として発達したものであるが、やがて徐々に新しい経済的発展を促進強化する生産的な力になっていく。

(4)近代人における自由の二面性

  • われわれは他人の期待に一致するように深い注意を払っており、その期待に外れることを非常に恐れているので、世論や常識の力はきわめて強力となる。言い換えれば、われわれは外にある力からますます自由になることに有頂天になり、内にある束縛や恐怖の事実に目をふさいでいる。
  • 個人は、かれの勤勉と知識と勇気と節約とそして幸福とが許す限り、自らの経済的富を獲得することが許され、また期待された。成功の機会は自分自身のものとなった。が同時に失敗する危険も自分自身のものとなり、各人が他人と争う激しい経済戦で、殺されたり傷づけられたりするのも、すべて自分自身の責任となった。
  • 愛は、もともとある特定な対象によって「惹き起こされる」ものではない。それは人間のなかに潜むもやもやしたもので、「対象」はただそれを現実化するにすぎない。憎悪は破壊を求める激しい欲望であり、愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求。すなわち愛は「好むこと」ではなくて、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追及であり、内面的なつながり
  • 商品と同じように、人間の性質の価値を決めるのは、いやまさに人間存在そのものを決めるものは、市場である。もしある人間の持っている性質が役に立たなければ、その人間は無価値。ちょうど売れない商品が、たとえ使用価値はあっても、何の価値もないのと同じ。もし他人から求められる人間であれば、その人間はひとかどのものであり、もし人気がなければ、かれは無に等しい。

(5)逃避のメカニズム

  • 自由からの逃避の最初にメカニズムは、人間が個人的自我の独立を捨てて、その個人には欠けているような力を獲得するために、かれの外側の何者かと、あるいは何事かと、自分自身を融合させようとする傾向がある。言い換えれば、失われた第一次的絆の代わりに、新しい「第二次的」な絆を求めること。このメカニズムは、服従と支配への努力という形で、はっきりとあらわれる。
  • 子どもは金のかごに入れられる。そしてそのかごから出たいということのほかは何でもが与えられる。その結果、子どもが成長したとき、しばしば子どもは愛に対して深い恐怖を持つようになる。かれにとって愛とは、自由を求めながら、捕らえられ閉じ込められることを意味する。
  • マゾヒズム的およびサディズム的努力のいずれもが、耐え難い孤独感と無力感とから個人を逃れさせようとするもの。しばしばこの感情は意識的ではなく、それは優越性や完全性の、補償的な感情で覆われていることもある。もはやかれは自分自身を持ちきれない。かれは狂気のように自分自身から逃れようとする。そしてこの重荷としての自己を取り除くことによって、再び安定感を得ようとする。
  • サディズム的人間は、マゾヒズム的人間が対象を必要とするのと同じように、対象を必要とする。ただかれは、抹殺されることによって安全を求めるのではなく、他人を抹殺して安全を獲得する。どちらの場合も個人の統一性は失われる。一方では私は自己の外側の力のなかに解消する。私は私を失う。他方では私は自己を拡大し、他人を自己の一部にするが、その際、私は独立した個人としては欠けていた力を獲得する。
  • 心理学的な意味では、力への欲望は強さにではなく、弱さに根ざしている。それは自我がひとりで生きていくことが不可能であることを示している。それは真実の強さが欠けているときに、二義的な強さを獲得しようとする絶望的な試み。
  • 最近になって「良心」の重要性は失われたきた。個人生活において力をふるっているのは、今や外的権威でも内的権威でもないようである。あらわな権威の代わりに、匿名の権威が支配する。その装いは、常識であり、科学であり、精神の健康であり、正常性であり、世論である。
  • 権威主義的性格にとっては、すべての存在は2つに分かれる。力を持つものと、持たないものと。力は、その力が守ろうとする価値のゆえにではなく、それが力であるという理由によって、かれを夢中にする
  • 破壊性は、生きられない生命の爆発である。生命を抑圧するこれらの個人的社会的条件は、破壊への感情を生み出し、この激情がいわば貯水池となって、特殊な敵対的傾向ー他人に向かうにしろ、自分自身に向かうにしろーを助長する。
  • 人間は自分の精神的行為の自発性を確信しているとしても、実際にはそれはある特殊な状況のもとで、誰か他の人間の影響に由来しているということ。
  • われわれの決断の大部分は、実際にはわれわれ自身のものではなく、外部からわれわれに示唆されるもの。決断を下したのは自分であると信ずることはできても、実際には孤独の恐ろしさや、われわれの生命、自由、安楽に対する、より直接的な脅威に駆り立てられて、他人の期待に歩調を合わせているのにすぎない

(6)自由とデモクラシー

  • 思想を表現する権利は、われわれが自分の思想を持つことができる場合においてだけ意味がある。外的権威からの自由は、われわれが自分の個性を確立することができる内的な心理的条件があってはじめて、恒久的な成果となる。
  • 教育によって、成長する子どもに押し付けられているように思われる束縛も、実際には成長と発展を支える、ただ過渡的な手段に過ぎない。しかしわれわれの文化においては、教育の結果、上から与えられた感情や思想や願望のために自発性が排除され、自然の精神的活動が打ち捨てられることが、実にしばしば起こっている。
  • 個人の最大の強さは、かれのパースナリティの一貫性の最大量に基づくものであるが、それは自分自身に対する理解の最大量に基づいているということ。「汝自らを知れ」という言葉は、人間の強さと幸福を目指す根本的な命令の一つ
  • ひとが本当に何を欲しているかを知るのは多くの人の考えるほど容易なことではないこと、それは人間が誰でも解決しなければならない最も困難な問題の1つであることを理解することが必要。しかしそれは、われわれがレディメイドの目標を、あたかも自分の目標と考えることによって、遮二無二避けようとしていることがらである。
  • 人間は他人の期待にしたがって行動するときにのみ、自我を確信することができる。もしわれわれがこのような事情にしたがって行動しないならば、われわれは単に非難と増大する孤独の危険をおかすだけでなく、われわれのパースナリティの同一性を喪失する危険をもおかすことになる。そしてそれは狂気に陥ることを意味する。
  • 無力も懐疑もともに人生を麻痺させる。そしてひとは生きるために、自由、消極的な自由から逃れようとする。かれは新しい束縛へと駆り立てられる。
  • すべて自発的な行為において個人は世界を包み込む。かれの個人的自我は損なわれないばかりか、いっそう強固になる。というのは、自我は活動的であるほど強いから。気が付いていようといまいと、自分自身でないことほど恥ずべきことはなく、自分自身でものを考え、感じ、話すことほど、誇りと幸福を与えるものはない
  • もし個人が自発的な活動によって自我を実現し、自分自身を外界に関係づけるならば、かれは孤立した原子ではなくなる。すなわちかれと外界とは構成された1つの全体の部分となる。かれは正当な地位を獲得し、それによって自分自身や人生の意味についての疑いが消滅する。かれは自分自身を活動的創造的な個人と感じ、人生の意味がただ1つあること、それは生きる行為そのものであることを認める。

3.教訓

本書を読み、たしかに、本当に「自分の意見です」といえることがどれくらいあるか、は少し考えてしまいました。

親や先生から勧められただけであったり、周りの顔色をうかがったり、単に聞きかじっただけの他人の意見の受け売りであったり、前任者のやり方そのままだったり、ということは意外と多いのではないでしょうか。実際、そのほうが楽だし、批判を受けることも少ないと思います。

でもそれだけでは、誰にでも代わりは務まり、個としての存在価値は認められません。

家族や会社という単位で集団生活をしていて、グローバルにつながっている社会環境においては、世界の誰からも影響を受けることなく、自分の意見だけを押し通すということは難しく、それを推奨したいとも思いません。時には戦略的に長い物に巻かれることを選択肢とするのも自由です。

ちょうど4月は、年度のタスクの目標設定をする時期で、チームメンバーとは多く面談しました。どの範囲においてどの水準まで目指すのかは、誰かが考えてくれるものではなく、自分で設定するものです。ましてや、会社を離れたところでは、休日に何をするか、自分自身が将来どうなりたいかを考えるのは、本当に個人の裁量次第です。

どうせ一度きりの人生なら、選ばされるのではなく、自分で選択した、と言いたいものです。