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大衆の反逆 オルテガ・イ・ガセット著

1.はじめに

ギュスターヴ・ル・ボンも、群衆を切って捨てていましたが、オルテガ・イ・ガセットもそれに負けず劣らず、大衆を切って捨てています。


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大きく異なるのは、どうすれば「群集」を動かすことができるかに焦点を当てているのに対し、自分の意見を持たず現状に満足している「大衆」を戒めている、と感じました。

以下では、印象的だったところを引用していきます。

2.内容

(1)密集の事実

  • 大衆はその定義から見て、自分の存在を律すべきではなく、またそもそも律することもできず、ましてや社会を統治することもできない。
  • 大衆とはあくまで「平均的な人たち」のことを言う。そう考えると、単に量にすぎなかった群衆が、質的な規定に変化する。大衆とは、多くの人に共通する性質、つまり所有者を特定できない社会的な属性を指し、誰もが他の人間と同じく、自らの中で1つの類型を繰り返すという意味での一般的な人間を表すにすぎない。
  • 良きにつけ悪しきにつけ、大衆とはおのれ自身を特別な理由によって評価せず、「みんなと同じ」であると感じても、そのことに苦しまず、ほかの人たちと自分は同じなのだと、むしろ満足している人たちのことを言う。
  • 現代の特徴は、伝統を持つ選ばれし少数者集団の中においてさえ、大衆や俗物が優勢になっていることにある。本質的に特殊な能力が要求され、それを前提に成立している知的分野の中にさえ、資格のない、あるいは与えようのない、その人の精神構造から判断して失格者の烙印を押すしかないようなえせ知識人が、日ごとに勝利を収めているのが現実。
  • むしろ現代の特徴は、凡俗な魂が、自らを凡俗であると認めながらも、その凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手にかまわず押し付けることにある。みんなと同じように考えない者は、抹殺される危険に晒される。

(2)歴史的水準の上昇

  • すべての運命は、その深い次元において劇的であり悲劇的である。慈愛の危機が脈打つのを自らの手に掴んで感じなかった人は、運命の核心に到達できずに、ただそのやつれた頬を撫でたにすぎない。私たちの運命に恐ろしい要素を加えているのは、すべてを席巻する凄まじい大衆の精神の暴力的反乱である。そして、これはすべての運命同様に圧倒的に御しがたく、得体の知れないもの。
  • かつては理想であったものが現実の要素になったときには、もはや皮肉なことに理想ではないということ。理想の属性でもあり人間に及ぼすその効果でもあった権威と魔力ともいうべき効力が、雲散霧消してしまう。

(3)一つの統計的事実

  • 生きるとは宿命的に自由を行使しなければならない、つまりこの世界の中で自分が「かくあらん」とする姿を決断しなければならないと自覚することに他ならない。一瞬たりとて自分の決断行為を休むことはできない。たとえ絶望のあまり成り行きまかせにするときでさえ、正確に言えば決断しないことを決断したわけ。

(4)大衆化した人間の解剖開始

  • 庶民は技術的、社会的にかくも完璧な世界に出会うと、それを造ったのは大自然だと信じ、実際にそれを創造した優れた個人の天才的努力には決して思い至らない。
  • 空気は「そこにある」もの、いつもあるから「当たり前」と言われるものに属している。これら甘やかされた大衆は、自分の意のままに用意されたその物質的、社会的組織が、空気と同じ起源を持っているのではないか、なぜなら見たところにいつもあるし、まるで自然のもののようにほぼ完全だから、などと信じる程度のお粗末な知性の持ち主。

(5)高貴なる生と凡俗なる生、あるいは努力と無気力

  • 卓越した人間とは自らに多くを求める人間であり、凡俗な人間とは自らに何も求めず、むしろ現状に満足して自己陶酔している人間
  • 「貴族」という言葉の固有の意味、すなわち語源にある核は、本質的に動的なもの。高貴な人とは「周知の人」、つまり誰もが知っている、無名の大衆の上に際立って知られるようになった有名な人を意味している。そこに含意されているのは、名声をもたらすまでのとてつもない努力。つまり後期は克己勉励もしくは卓越した人に相当する。
  • 私たちが眼にするのは、どの時代の大衆よりも力はあるが、しかし従来の大衆とは違って自己の内部に閉塞されていて、いかなるものにも人間にも心を開かず、それで充分だと信じている、要するに不従順な大衆に出くわす。

(6)大衆はなぜ何にでも、しかも暴力的に首を突っ込むのか

  • 賢者は自分が些細なことで愚者になるかも知れないと自戒している。だからいつ襲うかも知れぬ愚かさを避けるための努力を怠らない。それに対して愚か者は、自分を疑うことをしない。自分を分別の豊かな人間だと思っている。おのれの愚かさに居直っているので、うらやましいほど落ち着きはらっている。
  • 思想は、真理への王手。誰であれ思想を持とうと願う人は、真理を欲する姿勢、思想が課す競技の規則を受け入れることがまず必要。思想や意見を調整する審判、すなわち議論を律する一連の基準が認められないような思想や意見は論外。これらの基準は文化の原理。それが何かは重要でない。
  • 1つの思想を持つとは、その思想に込められた理性を所有していると信じること。つまり1つの理性、理解可能な真理でできた1つの世界が存在すると信じること。思索する、意見を述べるということは、そうした要請に訴えること、その要請に従うこと、その法規や裁定を受け入れること、要するに私たちの考えの理由が議論されるときのその対話こそが共生のための最良条件であると信じること。
  • ほとんどすべての国々において同室の大衆が社会的権力の上に重くのしかかり、すべての反対集団を踏みにじり、無きものにしている。その密度とおびただしい数を見れば誰に目にも明らかだが、大衆は自分と違う者との共存は願っていない。自分でないものを死ぬほど憎んでいる。

(7)原始性と技術

  • 人は技術と共に生きるが、技術によって生きるのではない。技術は自ら養うことも自ら呼吸することもしない。つまり技術は自己原因ではなく、余分で無用な関心から生まれた、有用で実用な沈殿物

(8)「満足しきったお坊ちゃん」の時代

  • すべての生は闘いであり、自分自身になろうとする努力。自分の生を実現するためにぶつかる困難の数々は、まさに私の行動を、私の潜在能力を目覚めさせ動員する世襲「貴族」において、彼の全人格は生の使用もその努力も欠いているゆえに、徐々に輪郭がぼやけている。
  • 人間の生に現われ得る最も矛盾した形態は、「満足しきったお坊ちゃん」。それゆえ、このタイプに人間が隆盛を極めるようになったときは、警戒の声を発し、生も堕落して相対的な死の脅威に晒されていると告げ知らせる必要がある。

(9)「専門主義」の野蛮

  • 専門家は、世界の中の自分の一隅だけは実によく「知っている」。しかしその他のすべてに関して、完全に無知
  • 科学者は自分では知らないすべての問題に対しても、無知な者としてではなく、自分に特有の問題について知者である人間として衒学的な態度丸出しで振る舞う御仁。事実、これこそが専門家の態度。

(10)世界を支配しているのは誰か

  • 支配は権威の通常の行使。そしてそれは常に世論を拠りどころとする。この地上で、世論以外のものに支えられて支配した者は存在しない
  • 支配するとは、権力を奪い取る身振りではなく、権力の静かな行使。要するに、支配するとは坐ること。無邪気でメロドラマ的な視点で推定することとは反対に、支配するとは拳骨の問題というよりむしろ腰を下ろす問題。国家とは、詰まるところ意見の状態、1つの均衡状態であり、静態。
  • 支配するとは、人びとに仕事を与え、人びとをその運命の中へ、その軌道へと乗せさせること。つまり大抵は常軌を逸すること、空しい生、荒廃であるところの逸脱を阻む。
  • 創造的な生は、高度な精神衛生の状態と大いなる品格、そして威厳の意識を駆り立てる不断の刺激といったものを要求する。自身が支配するものであるか、あるいは支配の権利を存分に認められた者が支配する世界に生きるか。この2つのいずれか、つまり支配か服従かである。しかし服従することは、我慢をして品位を落とすことではなく、むしろその反対に支配する者を尊敬し、命ずるものと連帯しながら、また戦意高揚の中はためく旗の下に馳せ参じること。

(11)真の問題に辿り着く

  • 大衆はただ単に言ってモラルを欠いているということ。つまり常に、本質的に何者かに対する恭順の念や奉仕と義務の意識であるモラルを持っていないことに尽きる。

3.教訓

例えば環境の変化に直面した場合に、自分がどうすべきかあまり考えもせず、現状にとどまっていたい人の意見に乗っかって「そうだ!そうだ!」と一緒になって言っているだけではダメなんだな、と再認識しました。

自分が意見したことは反対意見にさらされる覚悟を持ち、反対意見を封じようと支配するのは愚行であって、単に地位(役職)があるから仕方なくついていくのではなく、世論(≒賛同)があるからついてくる、という管理職を目指したいと思います。

ちょっと気持ちを緩めてしまうと自分もすぐに「大衆」の側に回ってしまっていると周囲から見られてしまう、ほんの少しのことを理解したからといってすべてをわかったような顔をしてはいけない、という2つのことは常に肝に銘じておきたいと思います。