1.はじめに
ネガティブ・ケイパビリティとは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」を指します。あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不誠実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味します。
目の前に、わけの分からないもの、不可思議なもの、嫌なものが放置されていると、脳は落ち着かず、及び腰になります。そうした困惑状態を回避しようとして、脳は当面している事象に、とりあえず意味づけをし、何とかわかろうとします。ネガティブ・ケイパビリティは、そのわかろうとする能力とは裏返しの能力です。
この言葉自体は、カウンセリングを学習している際、講義の先生から教えていただき、不勉強ながら初めて聞く言葉であったため、本書を読んで勉強しようと思い購入しました。
2.内容
(1)精神科医ビオンの再発見
- お互いに”頂点(ものの見方)”を持った人間と人間が言葉を交わすのが精神分析。そこに起きる現象、さまざまな感情や表現のどのかけらでも見逃してはならない。このとき分析者が保持していなければならないのがネガティブ・ケイパビリティ。
- つまり、不可思議さ、神秘、疑念をそのまま持ち続け、性急な事実や理由を求めないという態度。ネガティブ・ケイパビリティが保持するのは、形のない、無限の、言葉では言い表しようのない、非存在の存在。この状態は、記憶も欲望も理解も捨てて、初めて行き着ける。
(2)分かりたがる脳
- 幼い頃から私たちが受ける教育は、記憶と理解、そしてこうなりたい、こうありたいという欲望をかけたてる路線をひた走りしている。これを後押ししているのは、実を言えば教育者ではなくヒトの脳。私たちの脳は、ともかく何でも分かろうとする。分からないものが目の前あると、不安で仕方ない。
- ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく、謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんの、どうしようもない状態を耐え抜く力。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して、耐えていく持続力を生み出す。
(3)ネガティブ・ケイパビリティと医療
- 主治医の処方を<日薬>と<目薬>で表現する。何事もすぐには解決しない。数か月、数年治療が続くこともある。しかし、何とかしているうちに何とかなるもの。これが<日薬>。
- もう一つの<目薬>は、「あなたの苦しい姿は、主治医であるこの私がこの目でしかと見ています」ということ。ヒトは誰も見ていないところでは苦しみに耐えられない。ちゃんと見守っている眼があると、耐えられるもの。
(4)身の上相談とネガティブ・ケイパビリティ
- 身の上相談には、解決法を見つけようにも見つからない、手のつけどころのない悩みが多く含まれている。主治医としては、この宙ぶらりんの状態をそのまま保持し、間に合わせの解決で帳尻を合わせず、じっと耐え続けていくしかない。耐えるとき、これこそがネガティブ・ケイパビリティだと、自分に言い聞かせる。
- 耐えているとき、私自身の精神科医としての記憶も理解も欲望も、消え去っているような気がする。あるいのは目の前にいる生身の患者さんのみで、ひとりひとりの個性があり、ひとりひとりを取り巻く環境も違っている。その人が口にする言葉を、毎回毎回、来院のたびに味わい尽くすだけ。
- どうにもならない身の上相談の患者さんが来たとき、治療ではなくトリートメントをしてあげればいい。傷んだ心を、ちょっとだけでもケアすればいい。いつか希望の光が射してくることを願い、患者さんに「めげないように」と声をかけ続ければいい。
(5)希望する脳と伝統治療師
- 分かるために欠かせないのは意味づけ。意味が分からないままでは、心は落ち着かない。だからこそ、人は不可解なものを突き付けられると、何とか意味づけしようとする。この意味づけの際によく起こるのが、希望の付加。中立ではなく、希望的観測のほうに意味づけする。
- 何もできそうもない所でも、何かをしていれば何とかなる。何もしなくても、持ちこたえていける。どうにもならない宙ぶらりんの状況でも、持ちこたえていけば、いつかは好転するはず。それも、私たちの脳に、希望に向けてのバイアスがかかっているから。
- プラセボ’(偽薬)効果を生じさせる必要条件は、「意味づけ」と「期待」。治療を受けているのだと患者さんが感じ、病気が軽減されるという期待を持ったとき、脳が希望を見出して、生体を治癒の方向に導くのだと考えられる。
(6)教育とネガティブ・ケイパビリティ
- 教育が目指しているのは、ポジティブ・ケイパビリティの養成。平たい言い方をすれば、問題解決のための教育。
- 問題解決が余りに強調されると、まず問題設定の時に、問題そのものを平易化してしまう傾向が生まれる。単純な問題なら解決も早いから。このときの問題は、複雑さをそぎ落としているので、現実の世界から遊離したものになりがち。言い換えると、問題を設定した土俵自体、現実を踏まえていないケースが出てくる。
- ところてん式の進級と進学に輪をかけているのが試験。この試験突破こそが、学習の最終目標と化してしまうと、たしなみ、素養としての教育ではなくなる。問題解決のための学習、勉強になってしまう。
- 教育の現場に働いているのは、教える側の思惑。もっと端的に言えば「欲望」。教える側が、一定の物差しを用いて教え、生徒を導く。しかしここには、何かが抜け落ちている。世の中には、そう簡単には解決できない問題が満ち満ちているという事実が、伝達されていない。前述したように、むしろ人が生きていくうえでは、解決できる問題よりも解決できない問題のほうが何倍も多い。
- 研究に必要なのは「運・鈍・根」。「運」が舞い降りてくるまでには、辛抱強く待たねばならない。「鈍」は文字通り、浅薄な知識で表面的な解決を図ることを戒めている。最後の「根」は根気。結果が出ない実験、出口が見えない研究をやり続ける根気に欠けていれば、ゴールに近づくのは不可能。運・鈍・根は、ネガティブ・ケイパビリティの別な表現と言っていい。
(7)再び共感について
- ヒトは生物として共感の土台には恵まれているものの、それを深く強いものにするためには、不断の教育と努力が必要になる。この共感が成熟していく過程に、常に寄り添っている伴走者こそが、ネガティブ・ケイパビリティ。ネガティブ・ケイパビリティがないところに、共感は育たないと言い換えてもいい。
3.教訓
どうしても、解決思考で物事を考え、「自分だったらこうするのにな」「早くこうすればいいのに」と思ってしまうと、目の前の相手に共感することはできません。
わかったつもりで途中から自分の意見を話し始めるとと、相手は「もっと自分のことを話したいことがあったのに」と感じてしまいます。また、自分の意見が相手が希望する解決方法だとは限りません。まずは相手の想いを吐き出してもらうことが必要です。
まずは宙ぶらりんの状態を耐え、
- 解決策を言えるタイミングは後で来る
- もっと話を聞くとほかによい解決策がでてくるかもしれない
- 解決策は相談者が持っている
と信じて、自分の考えは脇に置いて話を聞く態度が重要です。
また、経験だけを聞いても共感できないこともあり、どう感じたのかをセットで聞くことで、自分の知らない話題でも、「それは〇〇ですね」という、共感をことばで伝えるようになると思います。
ネガティブ・ケイパビリティという概念を学び、人の話を聞き方として少し考え方を変えることができるようになる、良本であると思います。