1.はじめに
著者のセネカは、紀元前1年に生まれたとされています。
その時代の著書が現代まで受け継がれ普通に読めるということにも、図書館自体は紀元前から存在したという事実にも、ただただ驚き感心するばかりです。
(以下、日本図書館協会のホームページにおける、図書館の説明)
その中から、タイトルにも選ばれている「人生の短さについて」より、印象的な部分を以下に引用します。
2.内容
- われわれが手にしている時間は、決して短くはない。むしろ、われわれがたくさんの時間を浪費している。実際、人の生は十分に長い。そして、偉大な仕事を成し遂げるに足る時間が惜しみなく与えられている。ただし、それは人生全体が有効に活用されるならの話。
- 莫大な王家の財産も、それを手にした持ち主が無能なら、あっという間に消え去ってしまう。だが、どれほどささやかな財産でも、有能な管理人の手に委ねられれば、上手に運用されて増えていく。これと同じように、われわれの生涯も、それをうまく管理できる人にとっては、大きく広がっていくもの。
- 自分の金銭を他人に分け与えようとする者など、どこを探しても見当たらない。なのに、誰もかれもが、なんとなくたくさんの人たちに、自分の人生を分け与えてしまうことか。人は、自分の財産を管理するときには倹約家だ。ところが、時間を使うときになると、とたんに浪費家に変貌してしまう。けちであることをほめてもらえるのは、唯一このときだというのに。
- 自分が死すべき存在だということを忘れ、50や60という歳になるまで賢明な計画を先延ばしし、わずかな人たちしか達することのない年齢になってから人生を始めようとするとは、どこまで愚かなのか。
- 時間をが素早く逃げ去っていくことは避けられない。実際、あなたたちは、時間をしっかりとつかみ取りもしないし、それを引き留めもしない。時間は、あらゆるものの中で最も素早いものなのに、その速度を遅らせようとしない。それどころか、時間まるで無尽蔵の資源で、いくらでも湧いて出てくるかのように、過ぎ去っていくに任せているのだから。
- 生きるということから最も遠く離れているのが、多忙な人間。生きることを知るのは、何よりも難しいこと。生きることは、生涯をかけて学ばなければならない。さらに言えば、死ぬことも障害をかけて学ばなければならないこと。
- ある人が港を出たとたんに、激しい嵐に襲われたとしよう。彼はあちらこちらへと流されていった。そして、荒れ狂う風が四方八方から吹きつけ、同じところをくるくる引き回された。あなたはその人が長く航海していたとみなすだろうか。いな、その人は長く航海していたのではない。単に長く振り回されていただけ。
- 実際、彼らは最愛の人たちに向かって、自分の人生の年月の一部を喜んで捧げよう、という。捧げても、相手の人生の年月が増えるわけもなく、単に自分の年月を減らしているだけ。ところが、自分の人生を減らしているまさにそのことが、彼らには分からない。だからこそ、彼らは損失を受けても平然としている。
- 時間の経つのが遅いと不平をもらすことが、長く生きていることの証拠にはならない。なぜなら、そんな人たちは、すべきことがなくなって、閑暇の中に投げ込まれてしまい、時間の使い方も潰し方もわからずに、狼狽しているにすぎないからだ。だから、彼らは一生懸命に用事を探す。
- 偶然から生まれたものはみな不安定であり、高く上れば上るほど転落するものだが、誰も転落を喜びなどしない。それゆえ、彼らの人生が極めて短いだけでなく、極めて悲惨なものとなるのは当然。多大な苦労をして手に入れたものを保持するために、さらに多大な苦労をしなければならない。
- 彼らは、苦労の末に欲しいものを手に入れる。そして、手に入れたものを不安げに持ち続ける。しかし、そうしている間も、二度と戻らない時間のことは、まったく気にもとめない。新たな忙しさが、それまでの忙しさにとって代わる。彼らは、悲惨な生活を終わらせる努力などしない。単に悲惨の中身が移り変わってゆくだけ。
- 多忙な人は、みな惨めな状態にある。その中でもとりわけ惨めなのは、他人のためにあくせくと苦労している連中だ。彼らは、他人が眠るのにあわせて眠り、他人が歩くのにあわせて歩く。誰を好いて誰を嫌うかという、何よりも自由であるはずの事柄さえ、他人の言いなりにならなければならない。そんな人たちが、自分の人生がいかに短いかを知りたがったなら、その人生の中の、自分のものだと言える部分が、いかに小さいかを考えさせればよい。
- 高官の着用する服を幾度まとってきた人を見ても、議場や法廷でその名がもてはやされている人を見ても、うらやましいと思ってはいけない。そのようなものを手にするためには、人生を犠牲にしなければならないのだから。彼らは、一年を自分の名前で教えてもらうために、自分の人生のすべての年を使い果たす。
- 人は、互いの時間を奪い合い、互いの平穏を破りあい、互いを不幸にしている。そんなことをしているうちは、人生には、なんの実りも、なんの喜びも、なんの心の進歩もない。誰も死を見据えることなく、遠くの希望ばかりを見ている。実際、人生を終えた先の準備までしている者もいる。巨大な墓とか、本人を記念する公共建造物とか、葬式で催される見世物とか、盛大な葬列などだ。
3.教訓
おそらく、読んだ人のほとんどが、自分の時間の使い方を見透かされている、と感じたのではないかと思います。
周囲から暇な人と思われたくないために忙しいふりをしていたり、別に好きでもないのに相手に歩調を合わしていたり、他にいい方法があるかもしれないのに意図もわからず頼まれた作業をしていたり。そういうことで時間が過ぎていった経験はあると思います。
このあたりはアドラー心理学について「嫌われる勇気」に通じるものを感じました。
「ああでもない、こうでもない」と思っているだけで何も事態が進んでなければ、それは本当の意味で”時間を費やした”ことにはなりません。
時間とお金については、よく対比される概念です。お金は貯めておいて後でまとめて使うことはできますが、時間はただ過ぎ去っていくだけ。しかもお金と違って時間はすべての人に平等に与えられています。与えられた時間をどう使うかについては、お金でもよく言われる、消費・浪費・投資に分類ができます。
- ①消費:衣食住、目的地に移動する、必要な情報交換をする
- ②浪費:何の目的もなくだらだら時間を使ってしまう(TV、ネットサーフィン等)
- ③投資:将来の血肉になる行動する(資格の勉強、読書、セミナー参加等)
フルリモートできる人にとっては、①の移動時間も無駄に感じるかもしれません。しかし、人と直接会って話したり、実際の仕事現場を見たり、移動の合間に周囲を観察したりという時間も一定程度必要で、それが仕事のアイデアにつながると思います。
また、健康を維持する目的で適度な運動をすることや、脳や体を休めるため適切な睡眠時間を確保することも、③投資に含まれると考えています。
自分が主体的になって、どういうことに時間を使いたいか、その時間で何をするかを考えてこそ、有意義な人生になると思います。それを2,000年も前から教えてくれている良書、必読書だと思います。
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