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これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学 マイケル・サンデル著

1.はじめに

NHKの「ハーバード白熱教室」も放送されていたことから、JUSTICE(正義)について高名な教授、ということをご存知の方も多いと思います。

www2.nhk.or.jp

本書では、さまざまな具体的な事例をベースに、発生するジレンマの両面からの意見が記され、それに対する考察が展開されていきます。

本ブログでは、本の要約ではなく、印象的な部分を抜き書きしているものの、結果としては大まかな論旨を追えるような内容に仕上がるように感じていました。

ただし、本書については全く要約にはならかったものの、世の中に唯一絶対の解がないということを強く意識できた良本でした。

2.内容

(1)正しいことをする

  • ハリケーン被害による便乗値上げに対し、市場を支持する評論家は便乗値上げ禁止法に反対した。「市場でつく価格を請求することは暴利行為ではない。強欲でも恥知らずでもない。それは自由な社会で財やサービスが分配される仕組みが必要なのだ」という。評論家は「物価の急騰はひどく腹立たしいことであり、恐ろしい嵐のせいで生活が混乱している人にとってはなおさらだ」と認めていた。だが、一般市民の怒りは自由市場への干渉を正当化するものではない。一見法外な価格も、必要な商品の増産を促すインセンティブを生産者に与えることによって、「害よりもはるかに多くの益をもたらす」というのだ。「売り手を悪者扱いしてもフロリダの復興が早まることはない。売り手には思う存分商売をさせてやることだ」というのが評論家の結論だった。
  • アメリカ国民が怒りを爆発させたのは、巨額の救済資金を得た金融機関がボーナスを出したときだった。救済資金というボーナスをまかなうのが納税者であるのに対し、好況時のボーナスは企業の利益だ。アメリカ国民がボーナスに本当に反対するのは、それが強欲に報酬を与えるからではなく、失敗に報酬を与えるからなのだ。
  • たとえば「1人の命を犠牲にしても多くの死を避けるほうが良い」という原則がある。それからその原則にそぐわない状況に直面して、混乱状態に陥る。「できるだけ多くの命を救うことは常に正しいと思っていたが、そのために1人を犠牲にすることが間違っているような気がする」というものだ。こうした混乱の力と、その混乱の分析を迫る圧力を感じることが、哲学への衝動なのだ。

(2)最大幸福原理ー功利主義

  • 功利主義」の理論は、道徳の至高の原理は幸福、すなわち苦痛に対する快楽の全体的な割合を最大化すること。ベンサムによれば、正しい行いとは「効用」を最大にするあらゆるものだという。どんな法律や政策を制定するかを決めるにあたり、政府は共同体全体の幸福を最大にするため、あらゆる手段をとるべきである。政策のすべての利益を足し合わせ、すべてのコストを差し引いたときに、この政策はほかの政策よりも多くの幸福を生むだろうかと。

(3)私は私のものか?ーリバタリアニズム自由至上主義

  • リバタリアン自由至上主義者)は、経済効率でなく人間の自由の名において、制約のない市場を支持し、政府規制に反対する。リバタリアンの中心的主張によれば、どの人間も自由への基本的権利ー他人が同じことをする権利を尊重するかぎり、自らが所有するものを使って、自らが望むいかなることをも行うことが許される権利ーを有するという。
  • 自分を所有しているのは自分自身だという考え方は、選択の自由をめぐるさまざまな論議のなかに姿を現す。自分の体、命、人格の持ち主が自分自身ならば、それを使って何をしようとも(他人に危害を及ぼさない限り)自由なはずだ。こうした考え方の魅力にもかかわらず、その含意するところすべてが簡単に容認されるわけではない。(例:臓器売買、自殺ほう助、合意食人等)

(4)雇われ助っ人ー市場と道徳

  • 志願兵制には強制という側面がある。社会のなかで他にましな選択肢がない場合、兵役に就くのを選ぶ者は、実質的には経済的必要性に迫られて徴兵されるようなものだ。その場合、徴兵制と志願兵制の違いは強制か自由意志という違いではない。双方の強制の仕方が違うのである。ー前者は法律の力によって、後者は経済的な圧力によって強制される。報酬のために兵士になるという選択が自らの意思によるものであり、選択肢が限られているためにやむをえず選んだわけではないと言えるのは、まともな仕事がある程度選べる状況があってこそ。
  • 体外受精によって登場した妊娠のアウトソーシングは、むしろ、道徳的な問題をいっそう明瞭に浮き彫りにしたと言える。子供が欲しい人にとっては費用が大幅に安くつく点、そしてインドの代理母にとっては、その子供は産めば地元で働いて得られる賃金よりもはるかに多い金額が手に入る点を考えれば、商業的な代理出産が全体の福祉を向上させるのは疑いない。そのため、功利主義の観点からは、金銭の授受を伴う妊娠が世界規模の産業として台頭していることに反論することは困難だ。

(5)重要なのは動機ーイマヌエル・カント

  • カントによれば、人間はみな尊敬に値する存在だ。それは自分自身を所有しているからではなく、合理的に推論できる理性的な存在だからだ。人間は自由に行動し、自由に選択する自律的な存在でもある。
  • カントによれば、ある行動が道徳的かどうかは、その行動がもたらす結果ではなく、その行動を起こす意図で決まるという。大事なのは動機であり、その動機は決まった種類のものでなければならない。重要なのは、何らかの不純な動機のためではなく、そうすることが正しいからという理由で正しい行動を取ることだ。

(6)平等の擁護ージョン・ロールズ

  • 契約至上主義者でもない限り、トイレ修理に数万ドルを請求するのは、どう考えても不公正だと思うだろう。この事例は契約の道徳的限界について、2つのことを浮き彫りにしている。1つは同意したという事実だけでは同意の公正さは保証されないということ、もう1つは同意を得ただけでは道徳的拘束力は発生しないということだ。一方的な取引には互恵性がほとんどないため、たとえ自発的に結ばれたものであっても義務は発生しない。
  • ロールズは2つの理由から、道徳的功績を分配の正義の基準とすることを認めない。最初の理由は、他者よりも競争を有利に進められる才能を持っていることは、完全には自分の手柄ではないからだ。しかし2つ目の偶然性も同じように重要だ。社会がそのときに重視する資質もまた、道徳的に恣意的である。私の才能は確かに私に属するものかもしれないが、それが生み出す利益は需給という偶然性に左右される。スキルが生み出す利益のタカ派、社会が何を求めているかによって決まる。何が貢献的であるかは、その社会がどんな資質を重視しているかによって違う。

(7)アファーマティブ・アクションをめぐる論争

  • 学業面での資質のみを基準に学生を選考する大学もあるかもしれないが、ほとんどの大学は違う。大学の使命を定義し、選考方針を定めるのは大学自身であって、出願者ではない。学業成績であれ運動能力であれ、どの資質を重視するかを決めるのは大学だ。大学が使命を定義することによってはじめて、合否を判断するための公正な方法が決まる。

(8)誰が何に値するか?ーアリストテレス

  • ストラディヴァリウスのヴァイオリンが売りに出され、富豪のコレクターがヴァイオリニストより高値をつけたとしよう。これは一種の損失であり、不正義だとさえみなせないだろうか。競争が不公正にに思えるからではなく、結果が不適切だという理由で。こうした反応の裏にあるのは、ストラディヴァリウスは演奏されるものであって、装飾品ではないという(目的論的な)考え方かもしれない。
  • ヴァイオリンを奏でずにヴァイオリニストにはなれない。美徳も同じだ。「われわれは正しい行動をすることで正しくなり、節度ある行動をすることで節度を身につけ、勇敢な行動をすることで勇敢になる」。

(9)たがいに負うものは何か?ー忠誠のジレンマ

  • 謝罪の根拠として十分かどうかは、状況しだいである。時には、公式謝罪や補償の試みが有害無益となることもある。昔の敵意を呼び覚まし、歴史的な憎しみを増大させ、被害者意識を深く植え付け、反感を呼び起こすからだ。公的謝罪に反対する人びとはそうした懸念を表明する。結局、謝罪や弁償という行為が政治共同体を修復するか傷つけるかは、政治的判断を要する複雑な問題なのだ。答えは場合によって異なる。
  • 選択の自由はー公平な条件下での選択の自由でさえー正義にかなう社会に適した基盤ではない。そのうえ、中立的な正義の原理を見つけようとする試みは、方向を誤っているように見える。道徳にまつわる本質的な問いを避けて人間の権利と義務を定義するのは、常に可能だとは限らない。たとえ可能であっても、望ましくないかもしれない。

3.教訓

現代の日本では、真の意味で1人で生活している人はおらず、何らかの共同体に属した生活を送っていると思います。

自身も、日本国民であるだけではなく、1企業に属するサラリーマンであり、2人の子供の親であり、居住マンションの組合員であり、といった具合です。

それぞれの共同体で求められる貢献は異なり、また求められる内容も時間の経過に伴い変化していきます。

そのため、一貫性のある行動を保ち続けること自体が正しいものではなく、場面場面で正解が異なり、また人によっても価値観が異なるが、それはそれでよい、と強く思えるようになりました。

読書とは、常に自分の価値観とは異なる見方との遭遇の連続であり、新たな発見をもたらしてくれる有益なものと思います。