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職場で傷つく~リーダーのための「傷つき」から始める組織開発 勅使川原真衣 著

1.はじめに

最近、職場でしっくりこないこともちらほらあって、タイトルが気になり購入。

うんうん、わかるわかる、と思いながら読み進めていたところ、本書の”おわりに”以下の文言が出てきました。

手練手管を尽くして人々の不安を煽り、焚きつけるかのようなビジネス書でも、人の心を商品化するかのような自己啓発本とも異なる、現場でひたむきに働く人が「自分を取り戻す」ような一冊を作れないか?考え抜いて、たどりついたのがこの「職場の傷つき」というテーマでした。

ここで、「あぁ、そういう思いで出版されたんだな」と強く感じました。

副題に「リーダーのための~」とありますが、上に引用した通り、リーダー的なポジションでなくとも自分の持ち場で頑張りつつ、何か引っかかりを感じながら仕事をしている人なら、何かしら感じるものがあるはずです。

以下では、自身で特に印象に残った部分を引用します。

2.内容

(1)「職場で傷つく」とはどういうことか?

  • お互い異なる「持ち味」があるのが人間です。その凸凹がどうもうまくかみ合っていない状態が、組織としてどこか「うまくいっていない」状況と言うべきではないでしょうか。個人の問題というより、「組み合わせの問題」なのです。
  • 裁判したくて裁判するような奇特な人はいないわけで、「会社を相手取って裁判だなんて、困った問題社員だなぁ」なんて思う以前に、どうしようもないこじれた状況で司法に託す、彼女の窮地を理解することが不可欠です。
  • 少なくない職場で、「目線合わせ」こそが”対話”の本丸であるはずが、目線合わせを申し出た時点で、「めんどくさい人フラグ」が会社側から個人に対して立つことが少なくありません。忖度や空気を読むことを貴ばれるわが国においては、なかなかフラットに「話し合いたいのですが」と言い出せないところがあり、これがまた問題を根深くしているとも言えそうです。
  • 「職場で傷つく」ということをなかったことにして、それも「生産性」だの「積極性」だのという形のない「能力評価」の問題にさせられること。これが、真面目にちゃんとやる社員が、いかにして思考停止に陥り、無能化されていくのか。「闇落ち」してしまうのか。
  • 社員には社員の合理性があります。人生をわざわざ棒に振るような働き方を最初からする人はいないのです。
  • 本当に状況を打開するのなら、「誰が問題か?」のレッテル貼りではなく、「組織の何が、この人を追い込んだのか?」を再考することが必要でしょう。社員が「やってもしょうがないや」と思うに至るまでを紐解くこと、です。必要なのは「できないやつ」という糾弾ではなく、「傷ついてしまって、初心をもはや失いかけてるのかも」と自覚し、組織はしかるべきケアをすることが先決。
  • いくら「傷ついた」としても、選ばれなかった側に、発言権はありません。仮に発言したところで、「負け犬の遠吠え」「ルサンチマン」「だからできないやつなんだよ」くらいの返り血を浴びてしまいそうです。基準がどうであろうが、選抜の決定権を持つ側に生殺与奪の権は握られているのです。
  • 怒る側を揶揄する向きというのは、個人の「メンタルヘルス」を大切にする人も、案外無自覚に行いがちです。「アンガーマネジメント」ブームはその最たる例だと思います。傷つけ、怒らせる側におとがめなく、受け手の「力量」の問題だけにしていいのでしょうか

(2)「職場で傷つく」と言えない・言わせないメカニズム

  • ある社会システムによって、①得するのは誰か?、②口を塞がれるのは誰か?、これを表層に惑わされることなく、深掘りしていくことは本書に通底する目線と言うべきかもしれません。
  • 能力主義こそが、職場で本来はびこっている「傷つく」という事象がなぜか語られず、「ハラスメント」やおとなしい社員の「訴訟」、集団で不正行為に加担するなど、行き過ぎた事象として問題が表出するまで、日々の営みにおける個人個人の感情、特に負の感情には目が届かない状況を作り上げている。
  • 能力主義の大原則を前提に掲げる職場において、「うまくいきませんでした」「想定外でした」「だから傷つきました」なんてうかつなこと、まぬけな自己評価であると他人の目に映ります。
  • どこまでいっても、完全、完璧、公平な分け合いの方法は存在しません。安定した社会統治のためには、有無を言わせないか、有無がなるべく出ない・ぐうの音も出ないようなロジックを提示するのか、の二択なのです。
  • 誰と何をどのようにやる環境にいるのか?それ次第で自身のあり様はいかようにも変幻自在なのです。つまり、「職場の傷つき」も、「こういう能力があれば傷つかないのに」なんてのは、能力主義的妄想で、傷ついた個人というのは、その人の能力の問題というより、組織の「関係性」に課題がある状態のこと。
  • 「傷つき」という主観的で個別的な話すらも、「優秀ならば、傷つかない」「傷つくなんて、自分に落ち度がある」、そういう人間観・評価が跋扈してきました。気に病んだり、気を揉んだり、誰にでも本来あるし、必要なことだと私は思うのですが、それは、前向きな推進力に欠けるできの悪い人、の態度だとみなされてしまう、世知辛い社会なのです。
  • ここに、社会を席巻する能力主義的な人間観も加わり、個人が「傷つき」を認めたがらない・認めたくない気持ちにさせられたり、周囲が「”傷つき”なんて、特定のダメなやつの話だ」と早とちりしてしまうことは、もったいないというか、結果的に賛辞を招きかねない、危うい話なのです。
  • 勝てる試合があるとわかった人が、とことん優越の構造に身を置くのです。こうして序列化される私たち。「人的資本」なんて言って、組織の序列化、人間の序列化を強化するものになっていないか?能力主義に基づく序列化、されには排除は、その行為をいつだって正当化しますから。

(3)「能力主義」の壁を越える

  • 人の見え方(評価)でいえば、もっと可変的です。株相場くらい、平気で変動します。その人そのものが変わらなくても、誰と何をどのようにやっているか?という場が変われば、「使える」と言われたものも翌日には「あいつ使えねぇ」に変わりかねない。逆もまたしかり。ある人の見え方は、その人が固定的に保持している「能力」ではなく、あくまで相互に影響しあって揺らぎの中を進行する「状態」なのです。
  • 本書は、耳に心地のよいことばかりを言って、問題の矮小化を続ける限り、「職場で傷つく」ことを本質的に解きほぐせないと考えるため、しつこく言わせていただきます。「正しいのは誰か?」という問いは忘れてください。
  • 自分や他者をジャッジメンタルに見るのではなく、ただただ、”今は状況・場の歯車が噛み合っていない「状態」に陥っているのだな”、ととらえることなのです。そのうえで、”さてこの歯車を、どう噛み合わせていこうかな?ちょっと考えてみようっと”、これが職場のいざこざを紐解く第一歩になります。
  • 「私って、ほんとにやばいのかも?あぁ眠れない、どうしよう」ではなく、「今はちょっと調子悪いな…。どこかが噛み合わないのかな?変えられるところはあるのかな?」なのです。この思考は、何より現場に即した現実的な思慮です。
  • 何かを断定するなど、言い切ることが「仕事力」なのでも「リーダーシップ」なのでもありません。あいまいの中で揺れ動く現実をしかと受け止め、人間の限界に沿って、「~見えているけど、どう思う?」と他者との認識調整を試みるのです。
  • 何か、新しいことを推進するのが敏腕なのではなくて、今起きていることを、決めつけずに議論の俎上に載せること。これこそが、意外かもしれませんが、組織運営の屋台骨なのです。
  • 推進、促進の前に肝になることが1つありますよね。”なぜ今までこれを推進できなかったんだっけ?何が阻害してきたんだろう?”、これをその組織内でしつこく問うことです。今やっていない、やれていないことには、相応の理由があります。やらないことの合理性が必ずあるはずですから、そこをすっ飛ばして、あれをやろう、これをやってみよう、では、必ずや問題がぶり返します。
  • ×:社員に何がもっと必要だろうか?、○:組織の何がこうも協同を妨げてきたのか?、新しいことを始める前に、その阻害要因から考える
  • どこでもなんでもうまくやれるような「能力」が個人に備わっている人を「優秀」と呼び、そうではない人(それが普通なのに)は、「○○がダメだね」と「能力」不足を指摘されても甘んじて受け入れざるを得ない。そんな職場の常識を、ひっくり返す事例なのです。
  • どこでもなんでもうまくやれる「能力」の高い人を求めるのではなく、職務に対して適合的な「機能」を持ち寄れているかどうか?この目線で、個人ではなく組織を眺めるのです。
  • 仕事とは、いや、仕事人たるもの「こうあるべき」という絶対的な「能力」「優秀さ」というのは存在しませんが、職務・環境との適合性はよくよく見ておく必要がある、ということです。大事なのは、その「機能」というのは、個人が「能力」として持っていなきゃいけないと言っているのではなく、”組織としてそれぞれが持ち寄るもの”として存在している点です。
  • 素直な人もいれば、穿った見方で戦略的思考が得意な人もいる。明るく、コミュ力の高い人もいれば、黙って粛々と言われたことを言われたとおりきちんとできる人もいる。大切なのは、「ある優秀な人がいれば、すべての「機能」をでき、組織が求める「機能」をその瞬間にうまく発揮できていないことを、簡単に「使えない人」として、個人の能力に還元して語ってはいけない、ということです。

(4)いざ実践 「ことばじり」から社会の変革に挑む

  • 「求める人材像」とか「望ましい組織風土」などと言って絵空事を描くことより、今いるメンバーにどんな持ち味という名の「機能」が発揮されているのか?ありものをそのままとらえることは何はなくとも最重要な姿勢とも言えます。ただし、ここでクリアにしておきたいのは、”どんな「機能」が必要か?”は、”何を成し遂げようとしているのか(仕事の「成果」?)”次第だということです。
  • 仕事の「成果」=誰と×何を×どのようになるか。これが三位一体、噛み合ったときに、求める「成果」思い描く事業が回っていきます。壮大なLEGO作品も、それを積み上げるのにふさわしい、多様なブロックを集め、特徴を把握することからしか成しえません。1つの大きな「すごい」ブロックがあるのではありません
  • 能力主義のまま「職場の傷つき」に対処しようとも、「乗り越えられなかった人」「弱い人」として辺縁に追いやることでしかないからです。そして個人をそう追い込んだ人を「パワハラ」と言って、それも「わかっていない人」として周縁に追いやる。そこで、いったい何が解決したのでしょうか。
  • 「褒めなくていいですよ。でもその方がいなかったら、困りますよね?いてくれて助かってるんですから、これは言いましょうよ。『ありがとね』と」。つまり、謝意の表明が、個人の「傷つき」をなきものとしない組織開発の第一歩
  • 「いてくれてありがとね」なのです。ひとりのできる範囲は絶対的に限りがあるのですから。誰かの下支えあってのことなのです。その点が蔑ろにされているときに起こるのが、「傷つき」とも言えるわけです。みんながみんあ、それぞれの立場で、その存在に感謝、ないしは承認が得られていないと、どうしたってギスギスしてくるのです。
  • あえて平易にいえば、人を助ける、とか、ともに生きる、などという美辞麗句の実践は、「傷つき」「傷つけ」やすい人間を前提にし、見ないふり、聞かないふりをしないことからしか始められないのだ、と考えます。
  • その「人の本質」「あの人の能力」「本当の私」といくら言ったところで、良し悪しある断定、比較、序列化をしてしまう限りにおいて、職場や社会の多様な人間の連帯や共生を叶えることは原理的に困難なのです。行きつく先は、どこまでいっても差異化であり分断、なのです。

3.教訓

本書の”おわりに”にて、以下の文言が出てきて、本書を凝縮した一文だと感じました。

もともと違いのある他者を、垂直方向に序列づけるのではなく、水平方向のバリエーション(持ち味の違い)をよくよく理解したうえで、日常の思いをことばにし、相手がわかるようにかけ合い、人と人の組み合わせをいじりながら、場を調整しつづけるー組織開発が必要なのです。

人には、得意不得意が必ずあります。そして、仕事の1つ1つには、外から見えている難易度と、自分でやってみてわかる苦労との間に必ずや差分があります。

その人の頑張りによって最終的にキレイに仕上がった状態でしか目にしないので、成果物を受け取る人は、そのプロセスをすっ飛ばして「簡単にデータが出てくる、文書に仕上がっている」としか理解できません。未読ですが、「雑用は上司の隣でやりなさい」というタイトルの本が売れるのもわかります。

日々対応している業務は、間違いなく現担当者が一番詳しいです。その人がいなくなったら本当に困ります。よく、業務の複線化・多役化を目指せと言われますが、人が潤沢にいるわけでもなく自分の仕事に手一杯で、複数の業務をこなすようになるまでに現実には距離があります。

だからこそ、”謝意の表明が、個人の「傷つき」をなきものとしない組織開発の第一歩”という言葉が一番身に沁みました。職場でも家庭でも、周りへの感謝を忘れずに過ごしていきます。