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1.はじめに
全18条のうち、10条までは唯円が親鸞から聞いた内容、11条からは唯円自身の意見が書かれています。
中学の歴史では、親鸞が浄土真宗を開いたと習いましたが、自身には浄土真宗を開宗する意図はなく、没後に門下生が親鸞を”担いで”発展されたもののようです。
また、親鸞は、タブーとされていた「肉食妻帯」を宣言したことで、当時は相当な異端扱いを受けていたということも、本書後半の解説を読んで初めて知りました。
2.内容
(1)歎異抄
- (第2条)私の言葉をとっくりお考えのうえ、念仏を信じなさるのもよろしいし、念仏を捨てなさるのもよろしい。全く皆さま方の自由勝手、全く皆さま方が自分でお決めになることであります。
- (第3条)阿弥陀さまの願いを起こされる本当の意思は、悪人を成仏させようとするためでありましょうから、自分の中に何らの善も見出さない、ひたすら他力をお頼みする我らのごとき悪人の方が、かえってこの救済にふさわしい人間なのであります。
- (第6条)阿弥陀さまのおはからいにお任せして、こせこせと知恵を働かすことなく、自然の理に従って生きていますのならば、去っていった弟子たちも、いつかは仏さまの大きな恩を知り、また師の恩を知るときもありましょう。
- (第12条)何かの間違いで悪口をいう人がない場合は、どんなに信ずる人があっても、悪口をいう人がないのはどうしたわけであろうと、あやしまねばなりません。
- (第13条)悪を作った者を助けようとするのが阿弥陀さまの願いでありますからといって、わざと好んで悪を作り、往生の原因とせよという旨のことを言って、色々と悪い風聞がございましたときに、親鸞聖人のお手紙に「薬があるからといって毒を好んではいけない」とお書きになっていらっしゃるのは、かの間違った考え方をやめさせようとするためであります。
- (第14条)死の前にあって、念仏をして罪を消して極楽へ行こうとするのは、自分の心であるし、そういう人は、死ぬ前に静かな心にならねばならないと願っている人であり、全く自力往生の人、他力の信心のない人であります。
- (第16条)極楽浄土へ往生するためには、利口ぶる心を持たずに、ただ阿弥陀さまの御恩が深いことを常にほれぼれと思い出す必要があります。そうすれば、自然に念仏が申されてくるのであります。これが自然ということであります。自分のはからいでないものを自然と言います。
(2)梅原猛氏による解説
- 法然には愚人、悪人の救済を説く彼の思想と、勢至菩薩の再来と言われる智慧と堅固な持戒を持つ生活の矛盾があった。この矛盾の解決を悪の方、愚の方に進めたのが親鸞であろう。愚禿親鸞と自ら名乗るのは、そのような自覚ゆえである。
- 一人も殺さぬも千人殺すも、全くの過去の宿縁の結果であり、我々は善悪をそのような宿業に任せて、ひたすら念仏に励めという。それは全くの自力の放棄であり、道徳の否定であるようにすら見える。この本願ぼこり、造悪の徒への批判があるが、このような批判より、批判の中心は、このような造悪の徒を否定しようとするために、かえって偽善に堕した念仏者に向けられている。
- 宗教は決して現世的価値の、権力や名誉の価値ばかりか、学問的価値や道徳的価値の延長上にあるものではない。むしろ神の声は、そういう一切の現世的価値との切断を命じるのである。権力や金銭はもちろん、学問や道徳から自己を切断したところに初めて絶対者が語りかけるというのが宗教的心理の本質なのである。
3.教訓
私の家系が浄土真宗だからこの本を手に取ったわけではなく、他の宗派に属していることは認識しているものの、むしろ無宗教に近い感覚にいます。
ただ、国内外の歴史を見ても現代においても、宗教はテロや戦争を引き起こすほどの力を持っています。
そのため、自分は無宗教だからといって目を背けるのではなく、多くの人々の拠りどころとなる宗教とはいかなるものか、それぞれのどのような違いがあって何を目指しているのか等、これから学んでいきたい領域だと考えています。
その意味でも、本書と梅原猛さんの解説を読んだことは、大きな意味があったと思います。