1.はじめに
本書は、認知行動療法を勉強するために読んだ以下の本の参考文献として紹介されていました。
そこで、さらに詳しく知りたいと思い購入しました。
結論として、非常に示唆に富んだ一冊でした。多くの気づきと学びを得ることができ、読んで本当によかったと思います。
2.内容
(1)モラル・ハラスメントとは何か
- 実際、言葉のイントネーションやほのめかしの1つ1つを見れば、別に気にする必要もない、取るに足らないものであることが多い。だが、それが全体としてまとまりを持った時には精神を破壊するだけの力を持ってくる。被害者はこの恐ろしいゲームに巻き込まれ、自分も加害者と同じようなことをすることもある。
- モラル・ハラスメントの攻撃を受けたことによって、被害者は直接、死ぬわけではない。だが、自分自身の一部を失う。仕事が終わると、被害者は毎晩、傷つき、辱められ、疲れ切った状態で家に戻ってくる。そうして、その心や身体の疲れが回復しないまま、また会社に出かけていくことになる。
- 上司が強度に自己愛的な性格の人間であったりすると、部下は恐ろしい被害にあう可能性がある。このタイプの人間は、ただ自分が優れていることを証明するために他人を貶めたり、自分が生きていくために他人の精神を破壊する必要がある人間だからだ。被害者は身代わり(スケープゴート)として選ばれる。
- 部長は、不機嫌になったり、怒鳴ったりという、言葉以外の手段で自分の意向を伝える。それを恐れて、自分の考えを部長に述べる社員は1人もいなかった。社員たちはいつも部長を怒らせないように気をつけていた。そのためにはいつも神経を使って、部長が何をしたいのか、その意向を探る必要があった。部長と対立するのが嫌で、ほとんどの人々は自分の考えを出さず、部長の意向に沿うと思われる方向で仕事をした。
- 他人を尊重するなどという気持ちはまったくない。こういった人間はほんの些細なことがきっかけで激しい憎しみを抱き、また、相手がどれほど苦しんでいようとまったく哀れみの気持ちを持たない。被害者はそうされるのにふさわしい人間であり、それを不満に思う権利はない。いや、加害者にとって、被害者は人間でさえない。自分の邪魔になるただの障害物で、そこに感情があるなどとは決して認めていない。
- 一方では経済的拘束(働かなければ生きていけない)によって、社員はいつも過大な要求を突き付けられる。また、もう一方では人間的な価値や仕事の能力を低く評価される。社員は1人の人間だとは考えられていない。人間としての威厳も苦しみなどの感情も、またそれまで生きてきた歴史もほとんど問題にならない。
- モラル・ハラスメントは必要悪だなどと言って、それが当たり前だと思われるような社会にしてはならない。職場におけるモラル・ハラスメントは経済危機のせいで起こったのではない。他人を尊重しない行為を見て見ぬふりをする企業の放任主義のせいで起こったのだ。
(2)モラル・ハラスメントはどのように行われるか
- モラル・ハラスメント的なコミュニケーションにおいては、加害者は言葉を奪うことによって、被害者が考え、理解し、行動することができないようにする。会話を拒否することによって、加害者は目に見えない対立を深刻化させ、それどころか、現実に起こったことの責任のすべてを相手に押し付けることすらできる。被害者の「話を聞いてもらう権利」は拒否される。加害者は被害者の言葉などには関心を持たず、相手の言うことに耳を傾けようとさえしない。
- もっとも、そんな加害者のやり方に苛立って、被害者が「あなたの態度は冷たい」と言ったりすることもある。だが、加害者は断じてそれを拒否する。被害者のほうはますます苛立ち、大声を出す。すると、今度はそれを嘲弄されて、つまらないことで怒ったことにされてしまう。
- 被害者が自由を取り戻そうとする時には、思い切った暴力的な手段に訴えるしかない。だが、まわりの人間の目にはそれが衝動的に見え、特にその暴力が激しかったりすると、被害者は精神異常者のように思われることもある。こうして、挑発を行った加害者のほうではなく、挑発に乗った被害者のほうが責任を押し付けられることになる。加害者に罪を負わされるだけではない。被害者はまわりの人間からも攻撃的だとみなされるようになる。
- モラル・ハラスメントの加害者が内心の葛藤を自分自身では引き受けられないために、その葛藤を外部に向けて、他人を利用して破壊することでそこから逃れようとする。すなわち、自分を守るためには他人を破壊する必要がある。加害者の「変質性」はまさにそこにある。加害者は、わざと悪意のある行動をとっているわけではない。それ以外の生き方を知らないだけ。
- 加害者のほうは、自分の基準が絶対的なものだと考え、その基準をまわりの人々に押し付ける。そうやって、自分が優れた人間であるという印象を与える。加害者は他人に対して興味を持たない。したがって、「他人に共感することができず」、その感情を理解することができない。だが、その反面、他人からは注目されたり、自分のしたことに感謝されたりしたいと思っている。まわりの人間が生きていられるのは、「すべて自分のおかげだと思っている」。その結果、たとえば相手のことは厳しく非難し、自分に対してはいかなる反論も許さないということが出てくる。
- 加害者は道徳家のようにふるまうことが多い。他人に対して教訓を垂れるのが好きなのだ。その点からすると、加害者は妄想症の人格に近いところがある。①自我の肥大、②精神硬直(異常な非妥協性)、③警戒心(他人からの攻撃を異常に恐れる)、④判断の誤り、なんでもない出来事を自分に対する悪意の結果だと解釈する。
- 被害者はどうして被害者であるのか? それは加害者によって被害者に選ばれたから。被害者は身代わりの犠牲者(スケープゴート)であり、すべての責任を押し付けられる運命を負っている。加害者は被害者に精神的な暴力をふるうことによって、自分が抑うつ状態になるのを防ぎ、また自分自身を向かいあって、自分を見つめたり反省したりすることを避ける。被害者はそのためにいる。
- 被害者になるような人々は、相手から誤解されたり、相手とうまくやれないことに耐えられない。そこで、もしそんなことがあったと感じたら、それを取り返そうとする。また、何か問題が生じると、さらに努力を重ねてへとへとになるまで尽くし、それでもうまくいかないと、罪悪感を感じてますます尽くす。その結果、心底疲れ果て、いっそう罪悪感を感じる。まさに悪循環だが、ともかく何かあると、「相手が満足しないのは自分がいけないのだ」、「相手が攻撃的になるのは自分がいけないのだ」と考える。
(3)モラル・ハラスメントにどう対処すればよいか
- 相手に幻滅して、理想が崩れたときにも抑うつ状態が引き起こされる。そうしたとき、人は自分が無力だと感じ、徒労感や敗北感を抱く。困難な状況や危険な状況が人を抑うつ状態に陥れるのではない。無力感や敗北感、罠にはまったという屈辱感が抑うつ状態を引き起こす。
- 加害者の挑発に乗って、はたから見ると過剰な反応を示してしまう被害者もいる。他の人の見ている前で泣きわめいたり、加害者に対して肉体的な暴力をふるってしまう。そうなったら、加害者は自分の行為を正当化するだけ。「ほら、言ったとおりだろう? この男(女)は完全に頭がおかしいんだ!」。自己愛的な変質者、すなわち加害者は相手のほうが悪いことを証明するために、自分に対して暴力を振るわさせることさえある。
- 被害者は相手に対して心理的に抵抗しなければならない。だが、それをするには誰かの支えが必要になる。だが、逆に言えば、どんな状況にあろうと、たった1人でも被害者を支持してくれる人間がいれば、被害者は自信を取り戻すもの。
- 言いたいことは言わせておけばよい。自分のほうは決して苛立たず、身を守る準備として、何を言われたか書き留めておく。また、相手に仕事上のミスをつかれないように注意をしておく必要がある。モラル・ハラスメントを行っているのが上司ではないにしても、被害者のすることは加害者に注目されている。少しでもミスを犯したり、仕事が遅れたりすれば、たちまち攻撃の材料として加害者に利用される恐れがある。
3.教訓
著者はフランス人であり、主にフランスの職場環境について書かれていますが、読んでいて「これは万国共通の問題だ」と強く感じました。文化や国境を越えて、職場では似たような人間関係の摩擦が起こるものなのだと実感します。
どの職場にも、過度な自己愛を抱えた人物が存在するものです。そうした人は、自分の過ちを認めず、話題をすり替えながら相手への敬意を欠いた言動を繰り返し、自分の主張を押し通そうとします。私の身近にも、まさに現在進行形でそのような人物がいます。
たとえば、ある上席者はこう言います。
「俺が言ったからやるんじゃない。自分の考えを述べただけだ。誰が言ったかばかり気にするな。」
しかし、実際にその言葉を受けて取捨選択しながら対応すると、結局「違う!」と否定されてしまいます。仕方なく忖度して言われた通りに動いても、本人は以前の発言を覚えておらず、別の日にはまったく異なることを言い出して周囲を混乱させます。そして最後には不機嫌になり、「反省しろ」と叱責される——そんなことが繰り返し起こっています。
この本では、そうした人物が一定数存在すること、そしてそのような言動が一般的に「モラル・ハラスメント(モラハラ)」と呼ばれることが、客観的な視点で記されています。それを読むことで、「自分がすべて悪いわけではない」「自分は被害者の一人なのだ」と認識でき、少し心が軽くなりました。とはいえ、理不尽な被害を受けているにもかかわらず、周囲から「攻撃的な人」「仕事ができない人」と誤解されてしまう可能性もあるため、その点には注意が必要だと改めて感じました。
本書には、そうした職場の人間関係に対する洞察が随所にちりばめられており、非常に示唆に富んだ一冊でした。多くの気づきと学びを得ることができ、読んで本当によかったと思います。
