1.はじめに
本日現在、2026年1月の産業カウンセラー試験に向けて勉強中です。
そのため、オアゾの丸善に面陳列されているのを見て、即買いしました。
本書の中でも書かれているとおり、「カウンセリングは誰でもやっている非科学的なもの」、というイメージがあることも事実だと思います。だから、ここまで採り上げられ、売り場ランキングにも入っていて、正直驚きました。
以下では、勉強につながったと思うところを引用して紹介していきます。
2.内容
(1)カウンセリングとは何かー心に突き当たる
- 言うまでもなく、ユーザーがどういう人かによってカウンセリングのやり方は変わる。高齢者と思春期の子どもで同じやり方のはずはないし、抱えている問題も辿ってきた経緯も、目指すべき目標も人それぞれなので、それに合わせて異なるアプローチを使い分ける必要がある。誰に対しても同じアプローチしかしないのは素人で、相手によってアプローチを変えられるのが専門家。
- 「心のせい」と考えることには副作用がある。いわゆる過剰な自己責任にカウンセリングが加担してしまう可能性がある。必要なのは心を変えることではなく、環境を変えることが必要なこともある。外側の世界を変えることを「社会的支援」と呼ぶことができる。環境を変えることもまたカウンセラーの大事な仕事。
- 「心とは突き当たるもの。最後に姿を現すもの」。カウンセリングはファーストチョイスとして選ばれるものではない。誰も最初からカウンセリングに行こうとは思わない。そうではなく、色々な可能性を試して、どうしてもうまくいかなかったときに、心に突き当たる。カウンセリングとは突き当たるもの。
- 「心」とは自己と世界の中間にあり、その2つの間を調整する装置。たとえば、体がひどく疲れている(自己)。会社では山積みの仕事がある(世界)。心はその中間で「頑張ろう」と鞭を入れたり、「ほどほどでいいや」と緩めたりして、生活や人生をやりくりする。
(2)謎解きとしてのカウンセリングー不幸を解析する
- カウンセリングというのは基本的には時間を味方につけるための営み。即座に物事を解決するのにはあまり向いておらず、時間の力を使って、心や状況が少しずつ変化していくことを後押しする仕事。だから、予約日までの長い時間というのは、それ自体として時間の力を発動させる仕掛けと言ってもいい。それは欲求不満が募る時間にもなりえるが、同時に未来に約束があることによって、ふと我に返って、自分や周囲を見つめ直す時間にもなりえる。
- 申込用紙に主訴を書くことを通じて、ユーザーは自分を振り返り、少し客観視することができる。それこそがカウンセリングでなされる作業の本質であるわけで、申込の段階から少しずつ心を考えることがはじまっているということ。
- 問題歴(問題の歴史、つまりユーザーの主訴が形作られるまでの経緯)がうまく聞き取られるならば、ユーザーにも大きな報酬がある。全体が理解されることで自分が1人で抱えていた苦悩を受け取ってもらえたと感じるし、話をすることによって自分の問題を整理することもできる。すると「どうしてそうなってしまったのか…」という自分に向けられた問がユーザーにやってくる。
- 人間の心はふしぎ。誰かと一緒にいて、その人から「どうなりたいの?」と問われると、ふと我に返る。「え、私ってどうなりたいんだろう…」と考えはじめることができる。未来は他者といるときにのみ再起動される。無理やりに目標を絞り出してもらうのではなく、目標が見当たらないことそのものを心理的問題として捉えていくのがカウンセリング。
- 苦しいことを打ち明けられる相手、頼れる相手、相談できる相手がどれくらいいるかを知っておくことで、苦しい局面でどれくらいヘルプを出すことができるかをアセスメントする。インテーク面接でこれらを尋ねることには情報収集以上のメリットがある。ユーザーが自分の周りに頼りにできる人と思い出すことにつながるし、いざとなったときに頼ったほうがいいというメッセージとして受け取られる。
- 心を取り巻くものと、心そのものの反応の仕方。この2つを知ることで、起きている問題を理解し、それがどのようにしたら改善しうるかの見通しを持つことができる。こらがカウンセリングにおける「わかる」「理解」「アセスメント」の核心になる。
- カウンセラーが問題をどう理解したのかがきちんと示され、それが2人の間で共有される。このことによって、カウンセリングは出発することができる。逆に言うと、この段階でカウンセラーの示す物語が的外れであり、ピンと来なければ、その後のカウンセリングはうまく進んでいかないし、そもそも2回目自体が存在しなくなる。
(3)作戦会議としてのカウンセリングー現実を動かす
- 心は突き当たるもの。まずは身体や環境をできる限り変化させるよう試みる。しかし、自己も世界も本来ままならぬものだから、どうしても変えられない部分が残るときが多々ある。そのときに、心の出番がやってくる。身体との付き合い方を探し、世界との折り合い方を模索する。これらを手伝うのが作戦会議としてのカウンセリング。
- 作戦会議としてのカウンセリングの第1段階では、心の外側、つまり自己と世界を変化させることが試みられる。身体を回復させ、環境を調整する。このようにして外的な現実が整えられてはじめて、心が変化する余地が生まれてくる。
- 身体が客観的なものだとすると、からだは主観的なもの。身体という客観的な存在を、心が体験したものが「からだ」。あるいは、自己と心が接触するところに「からだ」が生じる。心の不調はからだに現れてくるし、からだの回復が心の回復につながる。
- 人生の中にはどうしても破局的な時期がやってくる。世界は日々変わっていき、人が置かれている状況は変化していくから、それまでの生き方では摩擦が生じ、それが高まると火花が散り、破局的なことが起こる。そして、そのような時期を生き延びるべく、格闘し、試行錯誤することを通じて、人は変化せざるを得なくなる。それまでの自分に存在していた無理や偏りを修復することになる。
(4)冒険としてのカウンセリングー心を揺らす
- 生活を守ることで、人生が死んでしまうことがある。すると、自分の一部が死んだまま、生活が営まれることになる。そういうとき、生活は回っているけど、人生は行き詰まってしまう。生きているけど、死んでいる。ここにはきわめて不自由にしか生きられない心がいる。生存は時に、実存を犠牲にする。
- 外枠が作られると、内側が生まれ、箱が提供されることで、中身を置いておけるのと同じで、心の表面がしっかり作られることで内面が成立し、深層が可能になる。心の防衛システムが整ってはじめて、僕らは自分について考えたり、振返ったりできるようになる。内省とは、安全な状態でのみ可能になるもの。
- ときに冒険が必要なユーザー「も」いる。外から見たら、適応しているし、安定しているし、安定している。しかし、そのために心はさまざまに無理をしている。その結果、人生は不自由になっていて、孤島の要塞のようになっている。本当は孤立している。そういうときには、心を揺らし、これまでとは異なる生き方を模索していくことが必要になる。この自分を知っていくプロセスにカウンセラーは付き合っていくことになる。究極的には、心を揺らすのは他者。他者に慣れるときに、鎧は緩まる。
- 冒険に出立するユーザーの主訴に共通していたのは、目立たないところに隠されている生きづらさ。人生の問題とは本質的にひそやかな問題。社会的には問題にならず、本人にしかわからない個人的な物語。社会の陰に隠れたごくごく私的な問題に、冒険としてのカウンセリングは取り組んでいく。
- たとえば理路整然と自分の話をしているのに、どこか上滑りしていて、気持ちが感じられないユーザーや、特定の話題だけ突然解像度が低くなり、感情が暴走しているように見えるユーザーのことが思い出される。つまり、心に凸凹がある。ちゃんと機能している部分と機能不全の部分がある。社会的には大人に見えるのに、局所的に子どものような未熟な部分がある。こういうときに、外からは見えない孤独や古傷がユーザーに存在していることを感じる。
- 冒険をはじめるユーザーの本質は「不自由」にある。心の一部が死んでいて、動かなくなっている。あるいは、心の一部にある痛みに触れないように、無理な体勢で生きている。この不自由な生き方によって、他者とのつながりも自分自身とのつながりも制限され、人生が行き詰まっている。
- とりわけ注目するのは人間関係。結局のところ、心の歴史とは、いかなる人間関係に傷つき、いかなる人間関係に救われてきたかの集積。幼少期の家族との関係からはじめて、学校時代にはどのような人間関係を持ったか持たなかったか、社会にでてからはどうか。人生の脚本は反復される。これこそが生育歴インタビューで謎解きすべきものであり、古傷が埋められしところ。
- 精神分析は違う。カウンセラーは転移を避けるのではなく、引き受ける。というのも、転移を通じて、ユーザーの脚本がいかなるものがリアルに理解され、今まで生きられてこなかった心の部分を再発達させていくことが可能になる。そう、転移こそが心を揺らすための舞台になる。
- ユーザーがなすべきことはシンプル、自由連想。つまり、心に浮かんでいることをそのまま全部話すこと。注意すべきなのは、自由連想は「喋りたいことを喋る」のとは全然違うこと。喋りたくないことでも、心に浮かんだならば、話さなければならない。自分にとって恥ずかしいことでも、あるいはカウンセラーを傷つけることでも、頭に浮かんだ以上は全部率直に話してもらう。ここにこそ転移が現れる。
- 冒険が進む中で、心の中の泥が溢れてくる。これがスライムであり古傷。ユーザーは泥沼にずぶずぶと浸かっていき、身動きが取れなくなり、そしてそこからスポンと抜け出していく。そのようにして、古い生き方を離れ、新しい生き方がはじまるということ。
(5)カウンセリングとは何だったのかー終わりながら考える
- ユーザーたちは会っていない時間に、つながっていることを体験して「も」いる。何か起きたらカウンセラーに話そうと思うし、意識的には考えていない場合にも、夢を見たりする。心のどこかでカウンセリングで行われている作業が続きいている。これが重要な点で、実のところ、カウンセリングにおける本質的な変化は、面接時間内ではなく、面接と面接の間の時間に起きる。カウンセリングが終わる。次の約束まで、現実に戻っていく。そこで生活と人生の試行錯誤がなされ、色々な事件が起きる。これをまたカウンセリングで話す。そして終わる。この繰り返しの中で、心は少しずつ変わっていく。
- ユーザーが直接「終わりたい」と不満を言葉にして伝えてくれるときにはカウンセリングにはまだ希望が残っている。「この孤立をわかってほしい」という気持ちが背景にはあるから。完全に絶望したときには、ユーザーは無言でカウンセリングを去ることになる。だから、この「終わりたい」とカウンセラーはしっかり向き合う必要がある。
- 別れには痛みがあるから転移が発生しやすく、転移が発生して痛みがあるから別れるしかないと思いやすい。いずれにせよ、カウンセリングが「役に立たない」「不安」と思われるときに、カウンセラーは無能な父親や距離が近すぎる母親の亡霊を引き受けている可能性がある。だから、「終わりたい」について話し合うことで、すでに生じていた転移が明らかになる。だとすると、そのことについてきちんと話し合えると、心の作業は前に進むことができる。
- 「終わりたい」に含まれている孤立の側面について話し合われなくてはいけない。ユーザーがカウンセラーに感じている不満や不安、あるいは傷つきについて尋ね、カウンセリングの今後に感じている絶望が話し合われる。つながりの危機について話し合うのは、ユーザーにとっても、カウンセラーにとっても、緊迫したタフな時間になる。そこにあったカウンセラーの失敗や未熟さなどが露わになるわけだし、突きつける側のユーザーにとっても勇気のいるものだから。
- 失敗から自分の技量を見つめ直すことは、カウンセラーだけではなく、すべての対人援助職が成長するうえで必ず起こること。しかし、ユーザーはカウンセラーを教育するためにお金と時間を割いてカウンセリングに通っていたわけでは断じてない。そこにあったのは小さな希望を振り絞って求めた1回限りのヘルプ。ここに中断という終わりの語り難さがある。
- 僕らは古い物語を背負っていて、それに執着することで、行き詰まってしまう。そこには古い夢があり、古い幻想がある。それは過去の大切な誰かからもらったものであったり、植え付けられたものだったり、一緒に作り上げたものだったりする。だからこそ、古い物語を終わらせることには痛みがある。古い物語から離れるためには、その過去の誰かとの心理的な別れを経験しないといけないから。そこには喪失があり、孤独がある。その痛みに持ちこたえるためには、他者とのつながりが必要。
3.教訓
たしかに自分が相談したい側であっても、「そうだ、カウンセリング行こう」と、ファーストチョイスにならないことは確かです。
いろいろと悩み、試して、他者に促され、時には連れられながら訪れるのがカウンセリングなんだろうと思います。そして、1回話しただけで心のもやもやが解消されることはなく、何回も話して、そして話していないときにも次回予約のことを考えて、というのがカウンセリングだと思います。
そのため、カウンセラーがクライエント(本書ではユーザー)に向き合うというのはものすごく大変なことだと思います。その裏返しで、クライエントからすると、話を聴いてくれる存在というのはものすごく大きいものだと思います。私もしっかり話を受け止められる存在でありたい、そうなりたいと思います。
